今日は私の85歳の誕生日です。
昭和20年に大東亜戦争が終わり、その後の時代の変遷は余りにも目まぐるしく、時代の前髪をつかんだつもりで、過去はいらない! 類型は嫌だ! とばかりに粋がって怒涛のように生きて来たように思います。
終戦の年は女学校(現中学)の1年生。その後しばらくは「人生50年」と言われて過ごし、子供の私には4~50歳の男性はおじいちゃんに思えておりました。
というわけで、その頃の基準からすると30数年も長く生きていることになりますね。
ほとんどの価値観が変わり、学ぶべき先輩も見当たらず、書物だけが私のゆく道を照らしてくれました。未だにその習慣は変わらず、黄班変性という眼病を抱えながらも活字からは離れられません。
今後も過去に経験したことのない状況を見続けさせられるのだろうと、楽しみは絶えないのです。
そのために健康だけは維持しなければと、雨降る今日は我が家の階段の14段を、10回上下しました。140段が初日の実績です。
明後日は仲間と老健施設でのボランティアを行い、来月は朗読のグループとのライブ、5月は私の「気ままライブ」が待っています。
高齢は個性! と繰り返し、93歳まで歌うと宣伝していたのを故あって95歳まで延ばし、シャンソンも菜園も、老老介護もエーイッ!とばかりにやり尽くす覚悟でいるのです。
次回から私のブログの表題は、「85歳の今」にしようかと思っています。
昭和20年に大東亜戦争が終わり、その後の時代の変遷は余りにも目まぐるしく、時代の前髪をつかんだつもりで、過去はいらない! 類型は嫌だ! とばかりに粋がって怒涛のように生きて来たように思います。
終戦の年は女学校(現中学)の1年生。その後しばらくは「人生50年」と言われて過ごし、子供の私には4~50歳の男性はおじいちゃんに思えておりました。
というわけで、その頃の基準からすると30数年も長く生きていることになりますね。
ほとんどの価値観が変わり、学ぶべき先輩も見当たらず、書物だけが私のゆく道を照らしてくれました。未だにその習慣は変わらず、黄班変性という眼病を抱えながらも活字からは離れられません。
今後も過去に経験したことのない状況を見続けさせられるのだろうと、楽しみは絶えないのです。
そのために健康だけは維持しなければと、雨降る今日は我が家の階段の14段を、10回上下しました。140段が初日の実績です。
明後日は仲間と老健施設でのボランティアを行い、来月は朗読のグループとのライブ、5月は私の「気ままライブ」が待っています。
高齢は個性! と繰り返し、93歳まで歌うと宣伝していたのを故あって95歳まで延ばし、シャンソンも菜園も、老老介護もエーイッ!とばかりにやり尽くす覚悟でいるのです。
次回から私のブログの表題は、「85歳の今」にしようかと思っています。