1年ほど前の
日経ビジネスに興味深い記事を発見する。
明治大学文学部教授、諸富祥彦先生の発言だ。
(インタビュアー)
ただ、先生、孤独に生きようと思いながら躊躇している人の中には、
「あまり他人と距離を置きすぎると、いざという時、誰も助けてくれなくなるのでは」
と考える人もいます。
(諸富祥彦)
ああ、それなら心配は要りません。広く浅くの表面的な関係で結ばれた友達が、
いざという時に、本当に本気であなたを助けてくれると思いますか。
相手が苦しい時に自分の身を投げ出しても何とかしようとする。
そうした深い人間関係は、「孤独を知ったもの同士」の間にこそ生まれる。
人間は本来孤独であり、それぞれ自分の道を生きていくしかない。
そうやって孤独を引き受けた者同士だから分かり合えるための努力をする。
孤独を知った者同士だからこそ響き遭える、深い出会いがあるんです。
特に最初の2行については経験上、深く首肯する。
昔、サークルメンバー数人が、ある男性に怪我を負わせ、
その結果、彼は会社を数か月休職し、後遺症に苦しむことになった。
勿論、悪気があってのことではない。ふざけていたうちに起きた事故だった。
…しかし、誰も責任を取ろうとはせず、先方が弁護士を立ててきても無視し、
自己保身に努め、彼の傷については黒い歴史として葬り去ろうとした。
そのサークルとは袂を分かったが、今も別に後悔はしていない。
「仲間」意識は強いが、友情らしいものは彼らにはなく、
付き合う理由も楽しみも期待も雲散霧消したからだ。
いざというときに、友情が試される、という。
しかし、大抵はひとはエゴに囲い込まれるものなのだ、とも思う。
少し前、
海辺に落とし穴を掘り、若夫婦が落ちて絶命したニュースが報道されたが
あの“友人たち”も悪気なく陥穽を築き、それにより自身が巻き込まれそうになったときに
他界した夫婦に非を被せ、罪から逃れようと画策した。
私が体験したサークルのメンバーたちと、彼らたちに大きな相違はない。
友人ごっこが好きで、仲間をコレクションのように多く集めてその数を競うが
実情は空疎であり、対象に何の親愛も厚情も寄せてはいない。
嘆かわしいとも、かなしいとも感じない。
ただ、そんなものだと思うだけだ。
みんな、最後には自分を優先する。
生き物は、すべて。
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