600円払って大阪の通天閣に登ります。エレベーターを昇り切り展望台に上がると金色のとても偉そうには見えない何某に会える。これが、ビリケン様です。
大阪プロレスの『ビリーケン・キッド』というレスラーがビリケン様から来ていることは余りに有名な話だ。彼は「ファイヤーバード・スプラッシュ」の使い手で強かったと記憶している。相方は「ペロ」という犬のレスラー?
ビリケン様は囲まれています。観光客が彼に群がります。愛嬌のある水木しげるが描く妖怪ちっくな外見も皆を惹きつける要因でありますが、もう一つ!ある。「ビリケン様の御足に触れると幸せになれる」という噂だ。そんな噂を聞き付けた「幸せになりたい人々」はこぞってビリケン様に群がる。
考えた末、私はビリケン様の御足には触らなかった。「幸せになれる」というコ
トバが余りに抽象的でイメージを持てなかったし、それに混雑していた。「幸せ」と「ビリケン様を詣でている人々」を上手く繋ぎ合わせることも出来なかったし、それに余りに混雑していた。ワイワイ騒いでいる輩を恨めしそうに見ていただけ。「幸せになること」を拒否したから、今回のテーマは壮大になってしまった。数行も書かないうちに後悔し始めている。
「幸せ」「幸福」とは何か? 得体の知れない「幸せ」「幸福」、しかも「なれる!」!何になれるのか考えてみる必要がありそうだ。
簡単な話がある。地獄の情景はイメージし易いが天国というのはイメージし難い。これは、頭のイイ誰かさんが神父さんに訊いた話だったと思う。その人は「地獄の情景に比べて天国の説明が弱かった」って感じで言っていた。確かに、何かは知らないけど天国って「お花畑が広がっていて、泉が沸いている」程度のイメージしか持てない気がする。劣悪な生活環境に比べて、最高に快適な生活環境ってイメージし難い。(天国では、新聞とかテレビとかあるのか?地獄は無いだろうけどね)コトバを換えれば、「最悪の状況」はイメージ出来るけど、「最高の状態」ってイメージし難い。出来る人がいたら、是非とも問いたい。「それは、既製品のイメージを借りただけではないか?」知らんけど。自分にとっての幸福を真剣にイメージする作業って、結構難しかったりする。
神父さんは日本から来た哲学者に天国、または幸福をイメージさせることが出来なかった。しかし、これは仕方の無いことで、現代の特に先進国においての幸福ってのは、個人個人の趣味嗜好に密着していて、一概に「こうだ!」とは言えないです。速い車に乗ることが幸せな人も居れば、歩いて回りたい人も居る。高層マンションに住みたい人も居れば、自然環境に適合した慎ましい生活を送りたい人も居る。多種多様な欲求が存在していて、また新しく生み出され、それらは統合されたイメージからどんどん離れていく。
戦後の日本や海の向こうの国であったら、「飢えない!」ってことが幸福だった。現状より、少し快適な場所は「幸福の場」として輪郭がぼやけることは無い。これらの一連の流れが幸福追求。
HAPPINESSを調べてみたら「満足感」というコトバが出てきた。満足感!これはキーワードに違いない。流石、イングリッシュ!分かりいいしアメリカっぽい。
更に、広辞苑では「心が満ち足りる様」と出ていた。ん?
詰まるところ、現状においての充足感の積み重ねが「幸福」と呼ばれるのではないか?恐らくは、現状をより良く正確に理解することこそが技術として必須なのではないかと思えて来たぞ。
上に「それは、既製品のイメージではないか?」と一丁前に問いかけてみた。それには、こんな理由がある。身の回りを見渡してみると、娯楽、遊戯の類、全て神経を鈍磨させる働きを持っている。それらはバーチャルな価値観を我々に与えてくれる。バーチャルな快感を与えてくれる。催眠術にもよく似ていて、実際は自分のあるべき姿から目を背ける効能を持っていたりする。しかし、それは前述した「現状をより良く正確に理解すること」の対極にあたる。
「幸福を願う」以前に、成さねばならぬことはあったのだと思う。その時(ビリケン様の前で)、私がそのことを直感で感じ取ったのかは分からない。人込みを嫌う習性が自分にあることも無視できない。
しかし、こうして一週間が過ぎ、タイトルにもある「どうでもいいこと」を考えたことは、「現状をより良く正確に理解すること」(幸福論)に繋がったと思う。因みに、私の想う「幸福」は『永遠の時間とそれを許す経済力の獲得』です。私は長生きしたいんですね、ホントお粗末です・・・。今から、大阪に行ってビリケン様を詣でてきます。 (終)
大阪プロレスの『ビリーケン・キッド』というレスラーがビリケン様から来ていることは余りに有名な話だ。彼は「ファイヤーバード・スプラッシュ」の使い手で強かったと記憶している。相方は「ペロ」という犬のレスラー?
ビリケン様は囲まれています。観光客が彼に群がります。愛嬌のある水木しげるが描く妖怪ちっくな外見も皆を惹きつける要因でありますが、もう一つ!ある。「ビリケン様の御足に触れると幸せになれる」という噂だ。そんな噂を聞き付けた「幸せになりたい人々」はこぞってビリケン様に群がる。
考えた末、私はビリケン様の御足には触らなかった。「幸せになれる」というコ
トバが余りに抽象的でイメージを持てなかったし、それに混雑していた。「幸せ」と「ビリケン様を詣でている人々」を上手く繋ぎ合わせることも出来なかったし、それに余りに混雑していた。ワイワイ騒いでいる輩を恨めしそうに見ていただけ。「幸せになること」を拒否したから、今回のテーマは壮大になってしまった。数行も書かないうちに後悔し始めている。
「幸せ」「幸福」とは何か? 得体の知れない「幸せ」「幸福」、しかも「なれる!」!何になれるのか考えてみる必要がありそうだ。
簡単な話がある。地獄の情景はイメージし易いが天国というのはイメージし難い。これは、頭のイイ誰かさんが神父さんに訊いた話だったと思う。その人は「地獄の情景に比べて天国の説明が弱かった」って感じで言っていた。確かに、何かは知らないけど天国って「お花畑が広がっていて、泉が沸いている」程度のイメージしか持てない気がする。劣悪な生活環境に比べて、最高に快適な生活環境ってイメージし難い。(天国では、新聞とかテレビとかあるのか?地獄は無いだろうけどね)コトバを換えれば、「最悪の状況」はイメージ出来るけど、「最高の状態」ってイメージし難い。出来る人がいたら、是非とも問いたい。「それは、既製品のイメージを借りただけではないか?」知らんけど。自分にとっての幸福を真剣にイメージする作業って、結構難しかったりする。
神父さんは日本から来た哲学者に天国、または幸福をイメージさせることが出来なかった。しかし、これは仕方の無いことで、現代の特に先進国においての幸福ってのは、個人個人の趣味嗜好に密着していて、一概に「こうだ!」とは言えないです。速い車に乗ることが幸せな人も居れば、歩いて回りたい人も居る。高層マンションに住みたい人も居れば、自然環境に適合した慎ましい生活を送りたい人も居る。多種多様な欲求が存在していて、また新しく生み出され、それらは統合されたイメージからどんどん離れていく。
戦後の日本や海の向こうの国であったら、「飢えない!」ってことが幸福だった。現状より、少し快適な場所は「幸福の場」として輪郭がぼやけることは無い。これらの一連の流れが幸福追求。
HAPPINESSを調べてみたら「満足感」というコトバが出てきた。満足感!これはキーワードに違いない。流石、イングリッシュ!分かりいいしアメリカっぽい。
更に、広辞苑では「心が満ち足りる様」と出ていた。ん?
詰まるところ、現状においての充足感の積み重ねが「幸福」と呼ばれるのではないか?恐らくは、現状をより良く正確に理解することこそが技術として必須なのではないかと思えて来たぞ。
上に「それは、既製品のイメージではないか?」と一丁前に問いかけてみた。それには、こんな理由がある。身の回りを見渡してみると、娯楽、遊戯の類、全て神経を鈍磨させる働きを持っている。それらはバーチャルな価値観を我々に与えてくれる。バーチャルな快感を与えてくれる。催眠術にもよく似ていて、実際は自分のあるべき姿から目を背ける効能を持っていたりする。しかし、それは前述した「現状をより良く正確に理解すること」の対極にあたる。
「幸福を願う」以前に、成さねばならぬことはあったのだと思う。その時(ビリケン様の前で)、私がそのことを直感で感じ取ったのかは分からない。人込みを嫌う習性が自分にあることも無視できない。
しかし、こうして一週間が過ぎ、タイトルにもある「どうでもいいこと」を考えたことは、「現状をより良く正確に理解すること」(幸福論)に繋がったと思う。因みに、私の想う「幸福」は『永遠の時間とそれを許す経済力の獲得』です。私は長生きしたいんですね、ホントお粗末です・・・。今から、大阪に行ってビリケン様を詣でてきます。 (終)
最近は小さなことでも幸せをかみ締めているのは、中学校の時にビリケンキーホルダーの足を撫でたからではないのか。と考えています。(おととい都南の再販にも三分の二サイズが売ってたし・・・)
酔ってないのに玄関外で靴を脱いで朝靴を探す姿も、二日酔いで吐気を我慢するのも、自分なりに楽しい事を自力で見出す己の力が幸せに続くレールのような気がします。いや、ビリケンさんの力かも・・・。阪神アリガトウ。