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「そったな、難しいこと、オラ、わがんねっ!」
それでいいのだと思う。田植えをしている人を捕まえて、今の世界の現状を訴え、打開策を提示したところで何の同意も得られないだろう。ただ、狭い世界で生きている人を、侮ってはいけない。「知らないだけだ!」と、蔑んだら…もっと、いけない。
そこにはほぼ完成された世界があって、それ以上を求めなくてもいいから、こうやって田植えを毎日しているのかもしれないんだ。すべては僕の幻想だとしても、なかなか素敵な画だと思う。
もともと、グローバルな視野というものは存在しない。グローバルな人間なんて、「クソ喰らえ!」なんて、思う。如何なる場所であっても、その瞬間に人がそこに居るならば、そこに人は生きている。それらを、すべて分かったような話をする人は、軽薄を体現している。分かるわけが、ない。
国際貢献なんてものは、幻想だと感じる。
外交上、国家としての体裁を保つ為であったら、それは嘘でも、必要なことだとしても、そんなのはどうでもいいけど…。例えば個人からなる集団が「何かに駆り立てられる」的de活動している場合なんかは、「貢献という記号で結束しただけの」団体だと思う。
なんでだろう?なんでだろう?
相手は、有難がるかもしれないが、それを元から期待してはいなかった。個人からなる異国の集団に期待はしない。向こうもこちらを知らないのだから。どうせなら、生霊とか神に頼るだろう。
知らなかったら、やらないんだ。知ってしまって、「どうにかしなくちゃ!」って、テンションが上がったから、やるってもんだ。知らないままなら、やらない。そんな妄想を膨らませている人なんてまず居ない。極端な話、隣の家で人が死んでいても、知らなければ、知らないままなら、楽しい生活を送れる。
と、なると。貢献という記号の中身はなんでっしゃろ?
僕は、『自己満足』だと思うのです。 「居た堪れなくなった!」いいです。それ、いいです。しかし、居た堪れなくなったのは、あなたです。「何か自分にでも出来ることはないか?」 素晴らしいことだと思う。ただ、その気持ちを発しているのは、あなたです。
じゃぁ、何が出来るか?
自分が満足すること、を、すればいい。それが第一義だと思う。
結果や、評価に囚われず、自分がやって気持ちいいと感じることをやればいい。
『国際的』なんてもんは、記号に過ぎなくて、結局は自分の問題だ。知らなかったら、やっていないのだから。知ってしまったから、(仕方がある、なしに関わらず)やることだから。
だから、田植えをする人には、伝わらない。伝えても、仕方ない。その人は、自分の口に入る米を作っているのだ。一生懸命作っているのだ。
周りの人間の口に入るものを作る。それ以上、正しいことはないでしょう。世界の裏側で何が起こっていようと、それは絶対に正しいことだ。知らないから、教えるってのは、違うと思う。まずは、自分が満足することでいい。
そんなこんなで…、まとめると、『貢献』とかいうのは、根底にあるのはその人の欲求だということ。そして、その欲求を満たすことは間違ったことではないということ。そして、その欲求は、他の人には決して100%は伝わらないものだということ。「知っているから…」と言うのは、その人の『知性』に依るものではなくて、『運』に依るものであるということ。そして、米を作ったり、野菜を育てたり、家畜を飼育したり、魚を捕ったりしている人は、それだけで、偉いのだということ。
ややヒステリックに、こんなことを思っています。ってか、改めて考えてみたんです。とてもいい機会でした。多分、僕の考えることだから殆どが間違って居るのかもしれないけど、それはゴメンナサイ。書いちゃいました。
でも、悪い話でしょうか…?
^^^^^^^^^
編集後記:こんな話では解決しない問題がある。結構、わんさか、ある。例えば、環境問題とかは、皆が一丸になって取り組まなければならない問題で、次の世代とか…やっぱり大事だと思う。ここで、話したかったのはスタート地点のスタート姿勢なんです。『無関心』の話では決して、ないのです。分かってもられるとよいのですが…。
「そったな、難しいこと、オラ、わがんねっ!」
それでいいのだと思う。田植えをしている人を捕まえて、今の世界の現状を訴え、打開策を提示したところで何の同意も得られないだろう。ただ、狭い世界で生きている人を、侮ってはいけない。「知らないだけだ!」と、蔑んだら…もっと、いけない。
そこにはほぼ完成された世界があって、それ以上を求めなくてもいいから、こうやって田植えを毎日しているのかもしれないんだ。すべては僕の幻想だとしても、なかなか素敵な画だと思う。
もともと、グローバルな視野というものは存在しない。グローバルな人間なんて、「クソ喰らえ!」なんて、思う。如何なる場所であっても、その瞬間に人がそこに居るならば、そこに人は生きている。それらを、すべて分かったような話をする人は、軽薄を体現している。分かるわけが、ない。
国際貢献なんてものは、幻想だと感じる。
外交上、国家としての体裁を保つ為であったら、それは嘘でも、必要なことだとしても、そんなのはどうでもいいけど…。例えば個人からなる集団が「何かに駆り立てられる」的de活動している場合なんかは、「貢献という記号で結束しただけの」団体だと思う。
なんでだろう?なんでだろう?
相手は、有難がるかもしれないが、それを元から期待してはいなかった。個人からなる異国の集団に期待はしない。向こうもこちらを知らないのだから。どうせなら、生霊とか神に頼るだろう。
知らなかったら、やらないんだ。知ってしまって、「どうにかしなくちゃ!」って、テンションが上がったから、やるってもんだ。知らないままなら、やらない。そんな妄想を膨らませている人なんてまず居ない。極端な話、隣の家で人が死んでいても、知らなければ、知らないままなら、楽しい生活を送れる。
と、なると。貢献という記号の中身はなんでっしゃろ?
僕は、『自己満足』だと思うのです。 「居た堪れなくなった!」いいです。それ、いいです。しかし、居た堪れなくなったのは、あなたです。「何か自分にでも出来ることはないか?」 素晴らしいことだと思う。ただ、その気持ちを発しているのは、あなたです。
じゃぁ、何が出来るか?
自分が満足すること、を、すればいい。それが第一義だと思う。
結果や、評価に囚われず、自分がやって気持ちいいと感じることをやればいい。
『国際的』なんてもんは、記号に過ぎなくて、結局は自分の問題だ。知らなかったら、やっていないのだから。知ってしまったから、(仕方がある、なしに関わらず)やることだから。
だから、田植えをする人には、伝わらない。伝えても、仕方ない。その人は、自分の口に入る米を作っているのだ。一生懸命作っているのだ。
周りの人間の口に入るものを作る。それ以上、正しいことはないでしょう。世界の裏側で何が起こっていようと、それは絶対に正しいことだ。知らないから、教えるってのは、違うと思う。まずは、自分が満足することでいい。
そんなこんなで…、まとめると、『貢献』とかいうのは、根底にあるのはその人の欲求だということ。そして、その欲求を満たすことは間違ったことではないということ。そして、その欲求は、他の人には決して100%は伝わらないものだということ。「知っているから…」と言うのは、その人の『知性』に依るものではなくて、『運』に依るものであるということ。そして、米を作ったり、野菜を育てたり、家畜を飼育したり、魚を捕ったりしている人は、それだけで、偉いのだということ。
ややヒステリックに、こんなことを思っています。ってか、改めて考えてみたんです。とてもいい機会でした。多分、僕の考えることだから殆どが間違って居るのかもしれないけど、それはゴメンナサイ。書いちゃいました。
でも、悪い話でしょうか…?
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編集後記:こんな話では解決しない問題がある。結構、わんさか、ある。例えば、環境問題とかは、皆が一丸になって取り組まなければならない問題で、次の世代とか…やっぱり大事だと思う。ここで、話したかったのはスタート地点のスタート姿勢なんです。『無関心』の話では決して、ないのです。分かってもられるとよいのですが…。
僕は、同感です。
小さい話ですが、綺麗なビーチに使い終わった花火が目に入って来たら 「あ~今日も自分のお役目が果たせると、ただただ感謝して片付ける」、与えられた任務を全うする喜びを見つけた時(居た堪れなくなった時)その事に、無、邪気に行動する。至福の瞬間!
絶対的な自己満足だと思います。
花火云々、とても良い例えです。
何でもそうですが、押し付けちゃいけない。押し付けられると、僕は引く。でも、こうやって書いてみたことも、押し付けになってしまう可能性があるところが、今回のポイント。「じゃあ、押し付けではないよ」と言っておかなければいけない。言っておくのを忘れたから。
「やりたいことを、やれる分だけ、やればいいのだ!」と言ってしまっても、大丈夫だよね?
言い方の問題なんだけど、それ以上はできないからさ。皆が知っている人生のマニュアル。『やりたいことを、やれる分だけ、やればいい!』
そもそも絶対なんてのは、ないのかも?!
色々な意見を止揚していけば良い方向に行くのかも?
「やりたいことを、やれる分だけ、やればいい」
う~ん いい響き♪
浅い様で深い 簡単な様で難しい様な・・・
最近、映画『ホテル・ルワンダ』を観ました。
中身は…
とにかく観て!
ルワンダの民族紛争で、国際世論に訴えようとするルワンダの民に、イギリスのジャーナリストが言うのです。
『それは期待しない方がいい。たぶん画面を通じて紛争の悲惨な様子を見ても、その先の人は皆、”ひどいね”で終わる』…みたいな。
国際貢献で何ができるか!そう考える前に、大玉転がしをして人生を楽しむことがいいと思ったりしてね。消費主義に抗ったりしてねぇ…
雑駁か
結局、ルワンダもソマリアもオグリッシュ.コム(Live Leak.com)も平和ボケしている僕にはリアリティーが無い。
しかし、無関心ではダメだとも思う。
国際貢献だとか大きくて難しい話は解らないが
「やれる分だけ やる」それがバタフライ現象となる事を願いつつ・・
ここで、川柳でも詠んでみよう…。
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新聞を 隅まで読んで 引き籠り
悲劇の図 余計に感じて 引き籠り
現実を 早くに見限り 山籠り
^^^^^
意味のない、歌だな。まあ、いいや。
映画は映画だ。消費社会に歯止めをかける事件にはならない。僕らの生活と彼の地の生活、当然時間を同じくして進んでいる。どちらかが止まればいいのだろうけど、不可能でしょ?
悲しいかな…、ショックを受けても、数時間後には元のスケジュールに戻っている。家に帰って、泣くことも出来ない、それが現代の生活だったりする。
乱暴な文章を書いたのは僕だけど、複雑な問題だ。何とも、何も言えなくなってきたよ。少し、反省している。
3連川柳すごくいい。
かっこいいやら、うらやましいやら。
負けずに投句
妄想の 世界膨らみ 閉じ籠もり
自堕落!