注意!:はなみずの見解は個人的なもので、実際はもっと重要なことが争点になっています。僕はお気楽バカで、ノンポリを体現するような人間ですので、こんな些細なことは意味の無いことなのかも知れないです。
=)=^=@%==¥=:;
各種業者に狙われた土地をめぐる攻防…。それを、冷ややかに遠巻きから眺めている。僕の立ち位置は、完全に!『要らない側』なのだけれど、どうも反対運動には積極的に参加できない。自分でも不思議に思っているのだけれど、どうしようもない。でも「共感できない!」ってのが多分…決定的な理由だ。
住民は弱い立場にはない。有権者だということに限らず(以前に書いたことと矛盾するようでもあるけど…)強い立場に居る。そのことが機能しない実状があろうが、強い立場に居ることに変わりはない。
問題は「反体制!」「反権力!」って感じのやり方のような気がする。
語弊はあるかもしれないけど『正義はこちらにあるのに、何故か卑屈な感じがする…』 そんな、イメージを僕は持ってしまう。
例えば『工場誘致』…。田舎に暮らしていれば、良いにしろ悪いにしろ耳にする話で、関心は余り持たれない。一般的に生活に対する実感は遠い所にあったりするし…。工場が出来ても感情的に何とも思わない人は多数派になる。それは時代のせいかもしれないし、政治のせいかもしれないし、温暖化のせいかもしれないし、マスコミのせいかもしれないし、頭の良い人のせいかもしれないし、バカな人のせいかもしれない。
誘致側と対等に渡り合うには、同じ土俵に上がるというのが前提だと思う。
工場を誘致するのに反対の立場を取るのなら、工場を誘致させない立場の人間は、「工場がない今の現状の利点」を、それを知らない第三者に伝えなきゃいけないと思う。
大抵は、現状にかなりの度合で満足している人たちがハンタイウンドウを引っ張る。執行部みたいなのを作って、勉強する。その努力は崇高な価値観に基づいていて、賞賛に値するのもだ。僕も、尊敬している。
でも、それだけでは駄目なのは明らかだ。
例えば、こんなナンセンスな話があった。「工場が出来れば、温水プールが利用できるよ♪」って、言った業者があった。「駄目だこりゃ!」って僕は直感的に思った。でも、僕の判断はこの時点では「温水プールはナンセンスで要らないから、こんなダサいことを考える業者も要らない!」って、個人的趣向を軸に決断しただけだ。
多分、そうじゃない!第三者に伝えなきゃいけない。その為には「温水プールがない生活」も提案しなきゃいけない。つまりは、『現状の利点』を、もしかしたら掘り起こす形で、発信していかなきゃいけないのだ。それは「お金を生まないけれども価値があるものだ!」と、伝えなきゃいけない。「お金を生まないけど価値がある!」と思っていない人に教えなければならない。そういう人たちを巻き込まなければならない。多分、時間がかかることで両方を同時進行で出来るほど人は余ってはいないだけれど、それが反対する本当の理由であるはずだ。「邪魔だから!できては困る!」って感じで進めていく。少しずつではあるが、うちのお婆ちゃんもこの土地の利点に気づき始めている。
「こんなんだから、駄目だ!」「お前らに不信感を待たざるをえないから、駄目ぇぇ!!」ってやり方に、僕は共感できない。「要らないものは、要らない!だって、私たちは現状でこれだけ満足している!」って、どうせなら…強がりでもいいから…、そう言いたい!
そんな雰囲気に『周りに居て、興味を持ち始めている知りたい人たち』を巻き込んでいく方法はないのだろうか…?それが広がって、自治なるものが生まれるような気がするのだけれど、僕がお気楽バカなのか…?
守ることの正統性、そのイメージをおろそかにしては本当の運動にならないと思う。
使い古された形容詞や造語に頼らない、それを超える今を含む未来のヴィジョン!を伝えなきゃいけなくて…、でもそれは時間がかかって大変な作業で…、共有することが難しい、とてもデリケートな問題だから、どうしたらいいのかは…、
ゴメン…!!
さっぱり、分からない!!
=)=^=@%==¥=:;
各種業者に狙われた土地をめぐる攻防…。それを、冷ややかに遠巻きから眺めている。僕の立ち位置は、完全に!『要らない側』なのだけれど、どうも反対運動には積極的に参加できない。自分でも不思議に思っているのだけれど、どうしようもない。でも「共感できない!」ってのが多分…決定的な理由だ。
住民は弱い立場にはない。有権者だということに限らず(以前に書いたことと矛盾するようでもあるけど…)強い立場に居る。そのことが機能しない実状があろうが、強い立場に居ることに変わりはない。
問題は「反体制!」「反権力!」って感じのやり方のような気がする。
語弊はあるかもしれないけど『正義はこちらにあるのに、何故か卑屈な感じがする…』 そんな、イメージを僕は持ってしまう。
例えば『工場誘致』…。田舎に暮らしていれば、良いにしろ悪いにしろ耳にする話で、関心は余り持たれない。一般的に生活に対する実感は遠い所にあったりするし…。工場が出来ても感情的に何とも思わない人は多数派になる。それは時代のせいかもしれないし、政治のせいかもしれないし、温暖化のせいかもしれないし、マスコミのせいかもしれないし、頭の良い人のせいかもしれないし、バカな人のせいかもしれない。
誘致側と対等に渡り合うには、同じ土俵に上がるというのが前提だと思う。
工場を誘致するのに反対の立場を取るのなら、工場を誘致させない立場の人間は、「工場がない今の現状の利点」を、それを知らない第三者に伝えなきゃいけないと思う。
大抵は、現状にかなりの度合で満足している人たちがハンタイウンドウを引っ張る。執行部みたいなのを作って、勉強する。その努力は崇高な価値観に基づいていて、賞賛に値するのもだ。僕も、尊敬している。
でも、それだけでは駄目なのは明らかだ。
例えば、こんなナンセンスな話があった。「工場が出来れば、温水プールが利用できるよ♪」って、言った業者があった。「駄目だこりゃ!」って僕は直感的に思った。でも、僕の判断はこの時点では「温水プールはナンセンスで要らないから、こんなダサいことを考える業者も要らない!」って、個人的趣向を軸に決断しただけだ。
多分、そうじゃない!第三者に伝えなきゃいけない。その為には「温水プールがない生活」も提案しなきゃいけない。つまりは、『現状の利点』を、もしかしたら掘り起こす形で、発信していかなきゃいけないのだ。それは「お金を生まないけれども価値があるものだ!」と、伝えなきゃいけない。「お金を生まないけど価値がある!」と思っていない人に教えなければならない。そういう人たちを巻き込まなければならない。多分、時間がかかることで両方を同時進行で出来るほど人は余ってはいないだけれど、それが反対する本当の理由であるはずだ。「邪魔だから!できては困る!」って感じで進めていく。少しずつではあるが、うちのお婆ちゃんもこの土地の利点に気づき始めている。
「こんなんだから、駄目だ!」「お前らに不信感を待たざるをえないから、駄目ぇぇ!!」ってやり方に、僕は共感できない。「要らないものは、要らない!だって、私たちは現状でこれだけ満足している!」って、どうせなら…強がりでもいいから…、そう言いたい!
そんな雰囲気に『周りに居て、興味を持ち始めている知りたい人たち』を巻き込んでいく方法はないのだろうか…?それが広がって、自治なるものが生まれるような気がするのだけれど、僕がお気楽バカなのか…?
守ることの正統性、そのイメージをおろそかにしては本当の運動にならないと思う。
使い古された形容詞や造語に頼らない、それを超える今を含む未来のヴィジョン!を伝えなきゃいけなくて…、でもそれは時間がかかって大変な作業で…、共有することが難しい、とてもデリケートな問題だから、どうしたらいいのかは…、
ゴメン…!!
さっぱり、分からない!!
世論=社会が味方になった方が勝つ、ともいえる。アフガンで人質になった人たち。崇高な信念で現地入りしたが拉致された。それを日本のメディアが流した。自衛隊撤退すべし!の議論が体勢を占めるかと思われた矢先、政府に息巻いて詰め寄る家族の映像が流れるや状況は一変。
「勝手に行っといて、助けろとは何ごとだ」。視聴者、世論もそちらに傾いた。拉致され、政治、戦争の道具になったあの人たち。家族、政府、批判した人、応援した人、報道したマスコミに残ったものは?
社会学的には、殺人をしても、世論=社会が殺人に同情し、或いは証拠不十分と認知すれば、法的解釈を抜きにして「殺人」ではなくなるって話。逆に、殺してないのに殺人者に祭り上げることも可。
産廃処理場、合板工場、テーマパーク、ゴルフ場、ホテル…etc 進出しようとする企業・団体、それを雇用確保・産業振興の面で歓迎・誘致する地元A、環境破壊や人体被害、景観上問題だとして反対する地元B。全国どこにでもある図式。
自治体や地元の有力者がAになる傾向は顕著にしても、Bはだいたい一般市民、世に言う弱い立場の人、エコロジスト、地方では都会からの移住者とか。
Bだって運動の中心になるコアな人たちのやり方いかんで、広く支持、賛同、共感を集められれば、撤退させることも可能だ。そういう例はアマタある。
けんか腰で、相手の自尊心を傷つけるような態度をとれば、まずうまくいかない。コアな反対派の周りに賛同者、シンパが形成されない。少数派の意見として押し切られ、建物は完成する。
正論を振りかざしても、賛同にはつながらない。法律や条例違反を盾にしてもそう。決定的な事実、相手がぐうの音も出ない致命的な証拠でも出さない限り、そしてそれが公に、不特定多数の目に留まらない限りは徒労だ。
大前提になる信念を曲げず、初志貫徹するためには、たとえ自分の自尊心や誇りが傷ついたとしても対抗する道を選択していくのが近道。童話「北風と太陽」を読み返す。
ただし、いつも思うのは、AでもBでも負けた方は不幸だ。最終的には勝った方もそうなるだろう、ということ。双方が少しずつ妥協できる、着地点はないのかな。
僕らはみんな生きている。♪生きているから●●●なんだ、生きてくために・生活するために・成功するために・うまいもの食べるために・名誉のために・地位を築くために●●●なんだ~
この●●●が違うから人生、人間ってのは面白く、同時に争うのか。神様、なかなか意地悪だね。今度会叱っとくから。
どっかでワイワイやっていて、それが本来の当事者となる人たちに伝わっていないとしたら、これは悲劇だ。
実際に僕にも伝わっていない…。極論を言えば「それだけ」のものなんだと思う。地方自治の中で、その程度の扱いになるんだ。こんなことを書いていて、僕も悲しくなる。しかし、現状はそんなもんだ。
賛成も反対も遠くにある。それどころか霞の先の得体の知れないものだ。
多分、大きなことを言えば意識の問題なんだと思う。上の構図すらも、一般の僕らからは遠い所にあって、「反体制!」みたいな雰囲気があるなら、どちらかと言うとそちらに共感できる。
でも、どちらも正しくない。僕も今度神様に会ったら叱っとくよ。分かんない様だったら、20年間、毎日欠かさず練習してきた『二段蹴り』をお見舞いしてやろうとも思っている。
どうも思わない…「沢山の事情があって、沢山の信念があって、結果的に!そこに居た!!」って、だけのことだ。
沢山の事情、沢山の信念を蔑ろにした時点で、マスコミは存在する意味を失う。「公平に!」なんて言っちゃいけないぜ!そんな話じゃない。
どうせなら、「在るものを、無いもの」として扱って然るべきだ。それは、その土地を尊重するものだから。無視は信頼と近接する。
情報は情報としての『役割』を行使すればいい。
余計な話で、僕は今…!酔っ払っている!!!
脚本家・井上ひさしはマスコミに主観を踏まえた提言を求めた。一方、何かとお騒がせの2チャンネルの管理人は、Fact(事実)の報道のみを求めた。
凧かどうかは別として、同じ事象を取り上げるマスコミ業界にあって、独自色は取材の深さや多面的な報道、というよりも、主観に基づく推測、ものの見方だろうよ。
進出しようとする施設が問題ないのか、悪なのかで、報道の方法も、分量も、同じ話題なのにタイトルも変わってくるだろうよ。右か左か、善か悪か。いるか、いらないのか…
賛成か、反対か。そういう論争の外にいる人に、メッセージはちゃんと届いているのか。それも賛否を問う者の務めなはず。そこまで巻き込めない、うさばらし的なものなら、それはその程度の問題として、社会が扱うだけだ。
飲みの帰りに神とすれ違ってさ、偶然。”そこまで知ってんなら、ちゃんと先に言っとけよ”って叱ったら、”それも含めて人間を試してるんだよ”だって。”何様のつもりだ”って怒鳴ったら、”神様だけど、何か問題が?”。自分に「様」付けてんじゃねえよ。
俺もまた、酔っている。
何紙あるか知らないけど、マスコミと本当の意味で呼ばれることを自覚するなら、そこに個性は要らない。届かせる効率こそが重要なんだ。
過激に言えば、大衆紙に差が無ければ無いほど良い。
大衆の同意を広い意味で得られるなら、それを得る為なら、その程度のリスクは背負わなければならない。無理に新聞をとってもらっているのだ。
どうせ、世の中は広いのだ。個性の集合体である大衆に食わせてもらうなら、大衆に様々なイメージを持たせる記事が優秀だ。それだけ、柔らかい記事がベストだと思う。
余計だ、(遠くから)指針を示すなんて…。