芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

エッセイ散歩 20年代のパリとヘミングウェイ

2015年11月05日 | エッセイ
                                                              

   もし、あなたが幸運にも、青年時代をパリで過ごしたことがある
   ならば、あなたが残りの人生をどこで暮らそうとも、パリはあな
   たについて回るだろう。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ。

 私はこのエピグラムが好きだ。アーネスト・ヘミングウェイの「移動祝祭日」は遺作である。彼の主要な作品のほとんどは、1920年代半ばから50年代までに書かれている。その後は躁鬱病のためか、ほとんど書けなくなっていた。そんな中、いつも空腹に苦しみ「とても貧乏でとても楽しかった昔のパリ」時代を回想した随筆(小説と思っていただいてもよい、と本人も言っている)を、57年から書き始め、1960年春にキューバで書き終え、秋に手を入れ、翌年の夏に自ら死を選んだ。
 ヘミングウェイは1917年にイリノイ州のハイスクールを卒業後、カンザスシティ・スター紙で半年ばかり働き、第一次世界大戦における赤十字社の運転手として志願して、1918年に砲弾が炸裂するパリに着いた。数日を経て北イタリアの戦線に従軍したが、重傷を負ってミラノの病院に収容された。
 この体験が十年後に「武器よさらば」として描かれた。やがて帰国したヘミングウェイは、1921年に最初の妻エリザベス・ハドリー・リチャードソンと結婚し、トロント・スター紙の特派記者として再び大西洋を渡り、ハドリーと共にパリに暮らした。

 1900年頃から20年代のパリである。アルクイユに住んでいたエリック・サティは、ピアノ弾きとして契約しているモンマルトルのカフェ(酒場)まで、ときに乗合馬車に乗り、ときに二時間もかけてパリの街路や路地を、歩いて通っていた。ダービーハットを被り、固いカラーをつけたシャツと黒い服をまとい、寡黙で謹厳な教師のような出で立ちで、穏やかな山羊のような顔に鼻眼鏡をかけていた。
 歩きながら彼の脳裏には無意味な言葉が浮かぶ。そっと口の端にその言葉をつぶやく。それは彼の曲の題名になる。曲とは無関係で恣意的に付けられた題名である。「梨の形をした三つの小品」「犬のための、ぶよぶよした真正な前奏曲」「干からびた胎児」「あらゆる意味にでっちあげられた数章」「嫌らしい気取り屋の三つの高雅なワルツ」「最後から二番目の思想」「官僚的なソラチネ」…。
 サティは三十代半ばにあらためて音楽学校で学び直し、二十代の若者たちを差し置いて、前衛、最先端のアヴァンギャルドの先頭を行く一人だった。バレエ・リュスのディアギレフ、ストラヴィンスキー等と共に、注目の人であった。
 サティは街を歩き、雑踏のさざめき、目にした広告ポスターや、カフェのささめきの中に音楽を感じていた。彼は人を取り巻く四囲の音、邪魔にならない、気にもとめないような音楽を考えていた。
 五十代を過ぎてダダの運動に参加し、1920年代に入ると、サティはその生涯の晩節を迎えていた。彼は「家具の音楽」を作曲し、翌年「いつも片目を開けて眠るよく肥った猿の王様を目覚めさせる為のファンファーレ」を作曲した。不思議な曲名である。「家具の音楽」の演奏会のとき、彼は聴衆に「演奏を気にせず、そのままおしゃべりを楽しんで下さい」と言った。そして25年にアルクイユの病院で死んだ。

 ヘミングウェイはガートルード・スタイン女史のサロンに出入りした。彼は「ジャンヌ・ダルクのような髪型をし」「がっしりとした北イタリアの百姓女」のようなこの女史から、多くの文学的示唆を受け、また多くの芸術家たちを引き合わされた。彼女のサロンはパリの画家や音楽家、詩人や文学者たちの溜まり場だったのである。マチス、ピカソ、ブラック、マン・レイ…。
 この時代、女を武器にのし上がったココ・シャネルは隆盛期を迎え、ディアギレフのバレエ・リュス公演を経済的に支援した。シャネルやディアギレフの周辺にはストラヴィンスキー、ブーランク、ラヴェル、ジャン・コクトー、ピカソ、ローランサン、マチス、ミロ等がいた。
 第一次大戦前からパリに暮らした藤田嗣治は、20年代にはすでにパリ画壇の寵児となっていた。25年にフランスのレジオン・ドヌール勲章と、ベルギーのレオポルド勲章が贈られている。
 嗣治のパトロンは薩摩治諸八である。治郎八は明治の木綿成金の孫であった。1920年(大正9年)にイギリスのオックスフォード大学に留学し、ギリシア演劇を学んだ。後に「アラビアのロレンス」と呼ばれる男と交遊し、22年からパリに暮らした。パリでの十年間で、現在の金額にして六百億円を使い、芸術家や芸術文化活動を支援し、豪遊した。治郎八は貴族でもないのにバロン薩摩、東洋の貴公子と呼ばれた。治郎八は日本の留学生のための施設「日本館」を自費で建設した。
 坂本繁二郎は1921年(大正10年)にパリに渡った。彼のライバル青木繁は十年前に夭折している。繁二郎はフランスの風光に魅せられ、その柔らかな風光を色彩化することに腐心し続けた。彼は24年に久留米に戻った。
 繁二郎とすれ違うようにパリにやってきたのは佐伯祐三であった。祐三は知らずユトリロの影響を受け、パリの街角を描いた。二年後に一時帰国したが、27年(昭和2年)に再びパリに渡り、ヴラマンクの知遇を得てその影響を受けた。翌年胸と心を病んで自殺未遂をはかり、その後精神病院に収容されたが、一切の食事を拒んで衰弱死した。まだ三十歳の、まるで自死にも似た死であった。
 その頃、岸田劉生はバリに行くことを切望しながら、それが叶うことはついになかった。「俺がパリに行ったなら、フランスの画家たちに絵を教えてやるよ」と彼は豪語したが、それは彼の矜持と、悔しさが混じったものであったに違いない。

 まだ第一次世界大戦が終結していなかったパリに、コール・ポーターがやって来た。その後20年代後半までパリに住んだ。社交界のパーティでピアノを弾き、アメリカの音楽界ではまだ成功していなかったものの、彼はパリで花形であった。ディアギレフやストラヴィンスキーとも交流した。ポーターは後にブロードウェイ・ミュージカルや映画音楽の寵児となった。「ビギン・ザ・ビギン」をはじめとする数多くの曲がスタンダードナンバーとなっている。
 ジョージ・ガーシュインはパリとアメリカを行き来しつつ、「ラプソディ・イン・ブルー」や「パリのアメリカ人」を発表した。ラヴェルはガーシュインのピアノに瞠目していた。パリに暮らす作家のスコット・フィッツジェラルドやコール・ポーターは、まさに「パリのアメリカ人」の典型であった。彼等はジャズエイジでもあった。1925年、フィッツジェラルドは「華麗なるギャツビー」を発表した。
 ヘミングウェイは貧しかった。食事を抜き、いつも空腹だった。本を買う金もなかった。ヘミングウェイはオデオン街十二番地の貸本屋兼書店のシェイクスピア書店に行って本を借りた。その貸本文庫の支払いにも苦労したのである。
 彼はスタイン女史のサロンへ行き、彼女と文学の話をした。「あなたはロスト・ジェネレーションなのよ」と彼女はヘミングウェイに言った。エズラ・パウンドを紹介され、やがてフランシス・ピカビア、ジュール・パスキン、ドス・パソス、ジェイムス・ジョイス、スコット・フィッツジェラルド等と交遊した。ヘミングウェイの文学修業時代である。

 ジェイムス・ジョイスは1915年から20年までチューリッヒで暮らし、その後パリに移り住み、22年に二十世紀文学で最も重要な作品と言われる「ユリシーズ」を発表している。
 ちなみに、以前も書いたが、「意識の流れ」を小説にしたのは、「ユリシーズ」のジョイスより夏目漱石のほうが十五年も早かったのだ。「草枕」である。
 癪に障るロンドンから日本に戻ると、日本もまた実に「癪に障る」世の中なのである。その癪に障る日本からいかに遁世するかを「山路を登りながら、こう考えた」のである。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。」しかし「人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。」…
「草枕」は思考小説というべきものだろう。しかし当時漱石は物書きになったばかりで、全く欧米に知られる存在ではなかったのである。彼は「吾輩は猫である」を書き続けながら「草枕」を書き、また「夢十夜」を書いた。「草枕」と「夢十夜」は奇想と幻想において一対の作品である。「草枕」に思想はない。これといったストーリーもない。ただ「思考の流れ」が綴られていたのである。漱石自身が言っている。
「こんな小説は天地開闢以来類のないものです。」「この種の小説は未だ西洋にもないやうだ。日本には無論ない。それが日本に出来るとすれば、先づ、小説界に於ける新しい運動が、日本から起こつたといへるのだ。」…これが漱石という文学者の自負であった。…その十五年後に「ユリシーズ」が出た。

 ヘミングウェイとハドリーは夫婦仲が良かった。貧しいながら南仏やイタリアにも旅行した。ミラノのサン・シロ競馬場にも足を伸ばしている。ちなみに、この競馬場は真に底力のあるステイヤーでないと勝てないコースで知られている。伝説のフェデリコ・テシオが育てた名馬リボ-(16戦16勝)は、このサン・シロ競馬場で12勝を挙げている。この競馬場の隣がサッカーのインテル、ACミランのホームスタジアムである。
 パリでもヘミングウェイはハドリーを伴ってちょくちょく競馬場に行った。アンギャン競馬場やオートゥーユ競馬場である。彼はそれを「内職」と呼んだ。彼等が暮らす貧しい界隈でも競馬新聞くらいは売っている。
 アンギャンはパリから汽車で七マイルの保養地である。湖と温泉と大金持ちの別荘とカジノと競馬場があった。アンギャンの競馬場は八百長で金をまきあげると言われていた。オートゥーユ競馬場は障害レース専門の競馬場である。北駅から汽車に乗って、その町の一番汚い、一番悲しい場所を通り、待避線を歩いて行った。ある日の午後、その競馬場でハドリーは一対百二十という大穴の黄金の山羊(シェーヴル・ドール)という馬に賭けた。シェーヴル・ドールは他馬を二十馬身も離して独走していた。このままいけば二人の半年分の生活費が手に入る。しかしその馬は最後の障害で転倒した。
 彼等はオートゥーユ競馬場の草地にヘミングウェイのレインコートを敷き、二人坐って昼食を食べ、葡萄酒を壜から飲み、古びた正面観覧席や木造の馬券売り場、トラックの緑の芝生や濃い緑のハードル、褐色に光って見える水壕や、白い漆喰塗りの石塀、緑の木々と芝地や集合所の馬たち、ハードルを跳ぶ馬たちを眺め、昼寝を楽しむ。びっしょりと汗で濡れ、鼻の穴を大きく開いて息をしている馬たちを見送ると、再び競馬新聞に目を落とし、次のレースの検討に入るのである。…どこか日本とは違う、大らかな競馬観戦である。

 1923年、二人の間にジャックが生まれた。ヘミングウェイはバンビと呼んで慈しんだ。子煩悩だったのである。後年ジャックの娘マーゴとマリエルは女優となったが、マーゴ・ヘミングウェイは1996年に自殺している。
 1926年、ヘミングウェイは「日はまた昇る」を発表した。27年に苦労を共にしたハドリーと離婚し、ポーリン・ファイヤーと結婚した。
 29年に発表した「武器よさらば」で作家としての地位を確固としたものにしたヘミングウェイはパリを離れた。
 その後、パリはいつもヘミングウェイについて回ったのであろう。なぜならばパリは移動祝祭日で、特に1920年代のパリは、刺激的で実験的で哲学的で、綺羅綺羅と哀しいほどに華麗で、切ないほどに貧しく、想い出すだけでも楽しい、祝祭の日々だったからに違いない。


                         

掌説うためいろ 時は流れ人も流れる

2015年11月05日 | エッセイ
                                                
 石川啄木は函館日日新聞、北門新報、小樽日報、釧路新聞と流浪した。この小樽日報時代に野口雨情、鈴木志郎らと出会い、また講演に来た社会主義者の西川光二郎と親交を持ち、雨情ともども強い感銘と影響を受けている。
 この西川の東北・北海道遊説には、添田唖蝉坊も一緒だった。啄木や雨情は唖蝉坊について触れていない。また唖蝉坊は碧川企救男と細君(碧川かた)について触れているが、啄木や雨情については触れていない。しかし雨情や啄木が西川に会ったということは、その傍らに唖蝉坊がいたということなのだ。また唖蝉坊が碧川夫妻と飲みながら語り合ったということは、同じ席に西川や雨情、西川の札幌農学校時代の仲間たちがいたということなのである。

 啄木は明治四十一年に妻子を釧路に置いたまま、再び上京した。この年、西川や石川三四郎、堺利彦、大杉栄、荒畑寒村らは警察の挑発「赤旗事件」に巻き込まれた。この時、管野須賀子(スガ)らも逮捕されている。
 啄木はこう書いた。

   ふがいなき我が日の本の女等を 秋雨の夜に罵りしかな

…啄木は管野須賀子の闘争心に、心を揺さぶられたのである。

 戊申詔書が出され、国家主義・忠君愛国への国定教科書改訂と、「主義者」狩りとも言うべきデッチ上げと弾圧事件が頻発した。
 四十三年五月、大逆事件が世間を震撼させた。警察は大逆事件に関与した廉で全国で八百人を超す「主義者」を検挙した。その中に、ほどなく拘留を解かれたが竹久夢二も含まれていた。夢二は「平民新聞」に挿絵を描いただけで拘束されたのである。夢二にはしばらく警察の張り込みと尾行が続いた。
 この大逆事件では二十四人に死刑判決が出され、内十二人に死刑が執行された。四人以外は無実の人々で、千駄ヶ谷の幸徳秋水の家に一泊したという理由や、本を借りた、挨拶に立ち寄った等という理由で処刑されたのである。まさに言いがかり、デッチ上げの共謀罪である。
 秋水の平民社は、国文学者・高野辰之の家の近くだったことは既に書いた。「剣呑剣呑」…
 幸徳秋水や管野須賀子等が処刑された四十四年、高野辰之と岡野貞一のコンビは「ああ勇ましや / 日本の旗は」という「日の丸の旗」を尋常小学唱歌に載せた。

 石川啄木は、与謝野鉄幹主宰の「明星」の投稿で知り合った、新詩社の仲間でもある作家、歌人、弁護士の平出修(ひらいで しゅう)の北神保町の事務所に立ち寄り、大逆事件の裁判記録や被告たちの陳弁書を借りて読んでいる。平出修は大逆事件の被告・幸徳秋水の弁護人だったのである。
 啄木は陳述書を読んだ後に書いている。
「われは知る、テロリストの / かなしき、かなしき心を」「頭の中を底から掻き乱されたやうな気持ちで帰った」…
 その十日ほど後、啄木は結核性腹膜炎で入院し、そのまま病が癒えることなく、翌年春に不帰の人となった。二十六歳二ヶ月で、啄木の明治は終焉を迎えたのである。同年、特高警察が発足したことも既に書いた。

 大正七年七月、鈴木三重吉が「赤い鳥」を創刊し、北原白秋が投稿作品の選定や編集に当たった。この「赤い鳥」運動は、単なる童謡童話の運動ではなく、まさに世界に類のない児童文学の運動だった。
 この年、スペイン風邪が世界中に猛威をふるい、富山の米騒動が全国に広がっている。

 野口雨情は事業を興すため、単身樺太に渡った。しかしそれはうまくいかなかった。彼は二年ばかり北海道を流浪した。小樽で啄木と共に新聞社を始めたおり、ひろ夫人と長男の雅夫を呼び寄せた。しかし雨情と啄木はうまくいかず、一ヶ月でそこを去って札幌に移った。この札幌で、長女のみどりが生まれてすぐに亡くなったのである。
 雨情は妻子を故郷に帰し、自分は室蘭、旭川と流浪し、その後に故郷の茨城県多賀郡磯原町に戻った。
 ひろ夫人は栃木県塩谷郡喜連川町の名家で、山林地主の高塩家の八代目、高塩武の三女だった。雨情は高塩家の農場の管理や、山林経営の手伝いをした。また地元の植林事業や漁業組合、農業組合等の活動に従事した。
 二女の美晴子が生まれたとき、夫妻は女の子の誕生に大喜びした。しかしその後の大正四年、ひろ夫人と協議離婚をしている。雨情はそのまま高塩家の農場や山林経営を手伝っていた。やがて、ひろは雅夫と美晴子を連れて高塩家に戻ったが、その後もひろと雨情は頻繁に手紙のやりとりをした。
 その頃、雨情は湯本の芸者置屋の女と同棲をはじめた。生活に追われ、しばらく全く詩作からは遠ざかった。やがて再婚したが、やはり文学の夢やみがたく、彼も再上京する。そして大正七年「金の船」を舞台に、童謡詩人、新民謡詩人として数々の傑作を世に送り出したのである。

 その頃、武島羽衣は日本女子大で教鞭をとっていた。学生の中に宮澤トシ子という東北訛りの娘がいた。その娘はいつも真剣な面持ちで聴講し、ノートを取っていた。しかし彼女は病気入院のため休学し、やがて退学届けを出して故郷に帰っていった。
 昭和十年頃になって羽衣は、あのトシ子という女学生が世間で評判の宮澤賢治の妹だったと知った。彼女が帰郷後四年ほどで亡くなったことも知った。羽衣はトシ子を哀れに思うとともに、同じ年齢で亡くなった滝廉太郎を思い出した。その頃は肺疾は死病だったのである。

 宮沢賢治は「赤い鳥」に童話を投稿したが、鈴木三重吉がその作品を評価することはなかった。三重吉はかつて「赤い鳥」に賢治が投稿してきたことも、その名前すらも覚えていなかった。昭和十一年、その鈴木三重吉が癌で亡くなった。北原白秋とは二年前に絶交したままであった。白秋の視力も急速に失われつつあった。

 下谷鶯谷の国柱会館で、三、四年前に亡くなった宮沢賢治という詩人で童話作家のことが話題になった。
「ほら、あの、ここにいつも来てたでしょ。ズーズー弁の若い人…あれが宮沢賢治だったのよ」
「ああ、広小路で熱心に布教活動してた彼かな…」
「いやあ覚えてないなあ。ここは人の出入りが多いからなあ」
「いつもほら、智学先生とお話がしたいって粘っていた人よ」
「そう言えば、なんかいたような気もするが…」
 もちろん田中智学は宮沢賢治の顔も名前も覚えていなかった。「八紘一宇」の侵略スローガンを作り出した智学は、国柱会の宣伝塔になりうる高名な人物にしか興味がなかったからである。例えば、宗教哲学者の姉崎正治のような、作曲家の山田耕筰や詩人の北原白秋のような、あるいは歌舞伎役者の尾上菊五郎のような…。

 啄木が死の前年に「姓は鈴木といった。名は何と言ったか。今どこでどうしているだろう」と想い、雨情に幼い娘を手放した悲しみを語った鈴木志郎、かよ一家は、その後も北の町を流浪していた。鈴木志郎は室蘭の製鉄所に仕事を得るが、やがて不景気のあおりで人員整理されて失業した。再び一家の流浪がはじまる。漁場で、道路開削で、缶詰工場で…。そして志郎は一家を連れて樺太に渡った。メソジスト系の教会の牧師としてである。
 昭和二十年八月十五日、日本は忠君愛国・国家主義・八紘一宇の帰結として敗戦を迎えた。一家は着の身着のままで蒼惶と北海道に引き揚げてきた。再び道内での流浪が始まる。そして鈴木志郎は小樽で労苦に満ちた生涯を終えた。その無名の人の、流浪の終焉までの物語は、また別の物語なのかも知れない。例えば…。

 昭和二十三年、かよも病に倒れた。かよは死の床で「アメリカで幸せに暮らしている」きみを想った。もう子どもも、もしかしたら孫もいるかも知れない。どんな子だろう。それはかよの曾孫なのだ。
 曾孫は女の子で、ワンピースのスカートに可愛いチェックのインバネスを羽織り、そして赤い靴を履いていた。おやおや、きみにそっくりだ。その母親でかよの孫に当たる娘も、全くきみに瓜二つだ。
 かよがフッと笑ったのを、枕元で看病していた娘の岡そのは見た。

 きみは…四十代になったきみは、かよの脳裏に像を結ばなかった。きみは…三歳で別れた時のままであった。喉のあたりをくすぐると幼い顎を引いて笑い、たまらず頭をのけぞらせ、身を捩って笑ったきみの姿だった。ワンピースのスカートにインバネス、そして赤い靴を履いて、優しげなヒュエット夫妻に夾まれて、両側から手を握られたまま遠ざかるきみであった。何度も何度も怪訝そうに、かよや志郎を振り返りながら遠ざかるきみの姿だった。かよは泣いた。
 そのがかよの耳に流れ落ちる涙に気づき、優しく拭いた。母は「赤い靴」に歌われた姉のことを想っているのだろう。今は子どももいるそのには、幼い娘を手放した母の、いまだ消えぬ悔恨と悲しみと切なさが、身を切るようにわかるのだった。…