芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

安藤昌益と松陰の比較

2015年11月10日 | エッセイ
    この一文は2006年9月7日に天野雀空の筆名で書いたものの抜粋で、先の「松陰論再
    び」の続きにあたる。



 18世紀前期から中期に、八戸の町医者・安藤昌益が「自然(じねん)真営道」「統道真伝」を書いた。時は将軍吉宗の時代である。「人において上下貴賤の二別なし」「上、君も人なり、下、民も人なり」「君を立つるは…諸悪の根源なり」「自然の道には、君と民と云ふことこれなし」…福澤諭吉の百年前の思想である。
 昌益は人間の自由平等と男女対等を書いた。「帝も将軍も天下の大盗人なり」と、封建身分制を徹底批判し、完全否定した。昌益は万国論を試み、小国オランダの政体と人民の自由と学問の自由と海外との交流を論じ、また宇宙の運行を論じた。彼は日本では全く孤絶した思想家だった。

 「直耕して、業を転定(天地)とともに為す」「人道は…直耕の一道なり…この外、道と云へること絶無なり」「真の仁は直耕して…徳を転(天)に同じくする者にして、これ衆人なり」と民百姓、額に汗して働く者を讃えた。そして「不耕貪食の徒」を口を極めて弾劾した。「耕さずして貪り食うは、転定(天地)の真道を盗む大罪人なり。
…聖釈、学者、大賢といへども、盗人は乃ち賊人なり」「君子と云ふは道盗の大将なり」「帝聖と云ふは強盗の異名なり」「思い知れ、後世の人、馬糞と謂はるといへども、聖釈とは謂はるべからず。馬糞は益あり」と、釈迦も孔子も孟子も将軍も帝も不耕貪食の大盗人と罵倒した。
 昌益は宗教を戦争の元と断じた。また「速かに軍学を止絶して、ことごとく刀剣鉄砲弓矢すべて軍術用具を亡滅せば、軍兵大将の行列なく、止むことを得ず自然の世に帰るべきことなり」と軍事力の廃絶を論じた。「永遠平和のために」で軍備の廃絶を説いたカントは、昌益の同時代人である。

 昌益は哲学、論理学、倫理学、宗教、政治、経済、歴史、地理、天文、暦学、数学、医学、薬学、動植物学、農学、軍事学、文字学、世界を論じた。
 同時代のフランスでは百科全書派と呼ばれる、広大な知性を持った一群の思想家たちが活躍した。ディドロ、ダランベール、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソー、ケネーたちである。
 ケネーも医者であった。彼は重農主義者と呼ばれ、経済学の祖となった。ケネーの親友がドーバー海峡を隔てたロンドンにいた。アダム・スミスである。彼も経済学の祖と呼ばれた。昌益が「自然真営道」を書いた年、ルソーが「社会契約論」を出した。
 安藤昌益は、まさに日本の百科全書派である。そして昌益は世界で最初の原始共産思想を語り、労働者が天下を取るべきであると書き、人間の自由と平等と人たる権利を語った。「農は、直耕直織して、安食安衣し、無欲無乱にして、自然転定(天地)直業の直子なり」…彼は後世、農本主義者と呼ばれた。昌益は女性たちを集め避妊法を説いた。悲惨な赤ん坊の間引きを止めさせるためである。昌益が説いた避妊法は、後世の「オギノ式」であった。

 昌益は自らの思想を百年後の思想と云った。弟子たちには門外不出を誓わせた。役人の耳にでも入ったら磔獄門になるからである。昌益の百年後にマルクス、エンゲルスが出た。J・S・ミルが出た。日本では福澤諭吉が出た。そして吉田松陰が出た。松陰の愚かさと退嬰性は、あまりにも明らかである。
 約百五十年後に、昌益を発掘したのは狩野亮吉である。狩野亮吉は昌益の全容を発表できなかった。明治の官憲の暴力と右翼国士の暴力が、その発表を控えさせたのである。また狩野は日本の本格的な経済学者・本多利明を発掘し、彼を高く評価した。さらに江戸中期、日本における本格的物理学者・志築忠雄を発掘したのも狩野である。志築忠雄は長崎出島の通詞だったが、ニュートン力学の数理・法則や粒子論やケプラーの法則を紹介した。「鎖国」と言う言葉は、この志築忠雄の造語である。
 昌益は約二百年後、つまり近代天皇制の当然の帰結である敗戦後に、カナダ人の歴史家で外交官だったハーバート・ノーマンが英語で書いた「忘れられた思想家」によって、初めて世界にその名が知られることとなったのである。

 さて松陰と他の日本の思想家を見比べよう。18世紀はじめ西川如見は「町人嚢」で「ひっきょう人間は根本の所に尊卑あるべき理なし」と書いた。19世紀のはじめ司馬江漢は「春波楼筆記」に「上天子将軍より下士農工商乞食に至るまで皆以て人間なり」と書いた。帆足万里の「東潜夫論」や、千秋有磯の「治議」は、真っ向から・の解放を論じている。千秋などは「西土既に此物無し豈に特に本邦のみこれあらんや」と書いている。千秋有磯はこう言いたかったのだ。本邦にこれあるは、大昔に律令身分制=天皇制なぞがあったからだと。
…松陰の愚かさと視野の狭さと退嬰性は、あまりにも明らかである。

松陰論再び

2015年11月10日 | エッセイ
   この一文は2006年9月6日に、天野雀空の筆名で書いたものの抜粋です。これは山
   口県民や松陰ファンを不快にさせてしまった。しかし県民の皆さんに特に意を含んだも
   のではなく、親しい方も何人かいる。お気に障る部分があれば、またお許し願いたい。
 


 安倍晋三は吉田松陰を尊敬しているらしい。ということは、実は吉田松陰を読んでいないことを暴露しているか、明らかにアブサードな右翼であることを示している。
 松陰はアジア侵略と近代日本を破滅に導いた悪鬼である。つまり現代に及ぶ影響を与えたことは間違いない。そして松陰がいかに退嬰的知性の持ち主であったかは、同時代の世界の知性と、彼より百年も前の内外の知性を知れば頷けるであろう。

 松陰が奉じた儒学・朱子学も国学も学問としての発展性は全く無く、思想哲学としての世界的な評価も全くない。儒学・朱子学は民衆の統治技術・政治技術を述べたものに過ぎず、「記紀神話」史学を基礎とする国学はミソロジーに過ぎないからである。
 孔子・孟子の王道政治とは覇道の対語概念である。社会制度や政治的な支配関係が出現する以前の原始状態の人間世界は、差別無く貴賤も無いように見えるが、実は強者が弱者を虐げ、奪い、殺す世界、弱肉強食の覇道の世界である。その中から傑然たる者が現れて、人々に食料の確保の方法を教えたり、寒さを防ぐ衣装の作り方を教えたり、農耕や紡織の技術を教え、人々を救い導くのである。人々はこの傑然たる者の支配に自ずと服するようになる。この支配は覇道の対語、王道の仁政なのだ。
 そして人間は生まれながらにして天命による貴賤の区別を持っていて、全ての者がその自らの分を守ってこそ、落ち着いた良い社会ができるのである。…これが儒学・朱子学の本質を簡単に述べたものである。
そもそも孔子、孟子の「論語」「孟子」は中国の古代王朝三代(夏・殷・周)の王を美化し讃えている。儒者で垂加神道を創始した狂気の尊皇主義者の山崎闇斎らは、この中国古代王朝の理想政治「王道」を、そっくり日本の神武以来の古代王朝に当てはめて理想化した。これが国学である。本居宣長も平田篤胤も吉田松陰も「記紀神話」の虚構を史実とし、「やまとごころ」を称揚し万世一系の天皇への赤誠と皇国史観と、天皇制の国体にしがみついた。
 松陰は、欧米列強に対抗しうるナショナル・アイデンティティとして、「記紀神話」による「万世一系の天皇」を日本の揺るぎない政治的権威=絶対的忠誠の対象=日本の国体と位置づけたのである。彼の頭脳が全く発展性のない朱子学と、偏見に満ちた国学に満たされ、世界的視野を欠いた時代錯誤にのめり込んだことは、彼が発した「カリスマ性」を考えれば、近代日本の不幸であったと言うべきだろう。
 松陰は尊皇攘夷派であったが、後、強国に開国することが決まった上は攘夷を捨てて、ますます尊皇主義のみで行こうと考えた。松陰は「獄是帖」に「魯墨講和一定の上は、決然として我よりこれを破り、信を夷狄に失うべからず、ただ章程を厳にし信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取りやすき朝鮮満州支那を切りしたがえ、交易にて魯墨に失うところはまた土地にて鮮満に償うべし」…と書いている。
 魯墨とはロシア、アメリカのことである。つまり「ロシアとアメリカと講和条約が決まった上は攘夷を引っ込め、条約を破ったりして強い外国の信用を失ってはならない。この間に国力を養って、ロシアやアメリカとの不平等通商交易で損した分は、弱そうな朝鮮や満州、支那を侵略して、その土地で代償すればよい」と言っているのだ。

 松陰は人を惹きつけてやまぬ純粋性があったのだろう。そのため長州の若者の多くは松陰に感じ入り、彼の死後に策謀家の坂本龍馬のデザインによって描かれた倒幕プラン…「玉」=幕府に信を置く孝明帝は邪魔で、白粉・お歯黒・描き眉の運動不足で足の萎えた不健康な少年帝を手に入れ、何も分からぬ彼に倒幕の勅書にサインさせて倒幕を果たす…に参集した。そして彼らは明治維新政権の中枢を担ったのである。その後は松陰の狂気の国体デザインを実現していった。
 ちなみに坂本龍馬は勝海舟にアメリカの初代大統領ワシントンについて「その子孫は、いまどうしています?」と質問している。勝は答えた。「フム、靴磨きか窓拭きでもしてるじゃろう」「なるほど」…龍馬は一瞬にして世襲政治を否定した民主主義を理解したのである。龍馬は勤王派とも佐幕派とも付き合ってきた男である。龍馬にとってイデオロギーはどうでも良く、天皇は道具に過ぎなかった。一日も早く、今までとは全く異なった社会体制の実現を望み、そのために利用できる道具は全て利用しようとしていた。天皇が邪魔になれば、当然その排除も考えただろう。龍馬は稀代の策謀家、謀略家である。そして龍馬の夢は、外国と自由に通商交易ができる社会の実現だったのである。

 松陰は「本邦の帝皇、或は傑紂の虐あらんとも、億兆の民は唯だ当に首領(こうべ)を並列して、闕(けつ)に伏し号泣して、仰いで天子の感悟を祈るべきのみ。…『天下は一人の天下なり』と。…是れ則ち神州の道なり」と書いた。つまり「わが国の天皇が、たとえ暴虐で知られた夏の傑王や殷の紂王のようであろうと、民はただ首を並べて宮城の門(闕)に伏して号泣しながら、天皇が民を少しばかり苛め過ぎたと悟られるのを祈るだけです。何故ならこの天下は天皇お一人だけのものだからです」…1945年の8月15日の皇居前広場を思い浮かべられよ。

 現代の国際的な憲法思想、人権思想の元となった「自由論」を書いたJ.S.ミルは、松陰と同世代人である。「…支配者が社会の上に行使することを許された権力に対して、制限を設けること」、その制限こそ市民の「自由」を保証するものなのであり、「政治的自由または権利と呼ばれる、ある種の責任免除を承認させること」で、もしも支配者が「これらの責任免除を侵害したならば、特定の反抗または一般的反乱が容認されうること」とミルは書いた。後にこれは「憲法による抑制」として確立された。つまり本来憲法とは権力者らに「これをしてはいけない」「これを破ってはいけない」という「抑制」として確立され、さらにその社会の「理念」「理想」を謳ったのである。松陰の思想的退嬰性は明らかである。