芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

エッセイ散歩 奇人変人

2015年11月21日 | エッセイ
              

 奇人も変人も犯罪者でない限り、面白い。彼等は、遠い過去の人であったり、今の人でも十分な距離を保って見ている限り、人間的に面白く、楽しい。身近にいれば不快に思うこともあり、たまさかに迷惑が及ぶこともあろう。ちなみに私は奇人でも変人でもない。そのため遺憾ながら、人間として全く面白味がない。
 ここ二十数年、文化人類学者・山口昌男は歴史人類学の一環で、「敗者学」としてこの奇人変人たちを研究、あるいは穿鑿し続けている。これがとても面白い。それらの中で山口は淡島椿岳と寒月親子、尾崎谷斎と紅葉親子等に触れている。かつて井上ひさしは、山口昌男を「興信所みたい」と評した。すると山口は「興信所より僕のほうが詳しい」と返した。
 山口が「『敗者』の精神史」「『挫折』の昭和史」「敗者学のすすめ」で取り上げているのは、近代日本の奇人変人たちと、そのネットワークが果たしたハイブリッドな日本的モダニズムの生成や、彼等が守り続けた敗者のダンディズムである。
 氏をだいぶ以前、知里幸恵のイベントでお見かけしたことがある。とんでもない博覧強記の学者であるから、世界の奇人変人学を書こうと思えば、いとも簡単にものにするに違いない。

 尾崎紅葉は父の谷斎を恥じていたらしい。谷斎は根付師で鹿角を使用した「谷斎彫り」として知られ、芸者、芸人衆に人気があった。彼はまた「赤羽織の谷斎」として柳橋や新橋で知られた幇間であった。
 淡島椿岳は少年時代に川越の在から江戸に出て、ある日、日本橋馬喰町の軽焼の淡島屋という富裕な御店の養子となり、突然お大尽になった。以来、御店の仕事に精を出すこともなく、江戸趣味と新し物好きで、粋で奇矯な趣味人として、絵描きとして、悠々遊び暮らしたのである。彼は江戸の円山派の絵師・渡辺南岳の弟子・大西椿年に師事した。椿岳の筆名はこの二人から戴いたものである。その同門で椿岳の絵の師でもあった川上冬崖は、明治の画家として洋画の技巧も取り入れ、官からの依頼も受けて、巧みなスケッチで多くの風俗の記録を残し、椿岳と深く交わった。
 渋沢栄一には三十数人の妾がいたそうであるが、椿岳の妾の数は百六十人にのぼった。どうしてそんな数に上ったかというと、容色が衰えると替えていったかららしい。
 私が瞠目したのは、この遊び人淡島椿岳が、イベント屋でもあったことである。イベントに「遊び心」は欠かせない。
 明治四年頃、横浜に最初のピアノやヴァイオリン等が入荷すると、椿岳はさっそく横浜に出かけ、ピアノ二台を含む多くの洋楽器を買い込み、神田今川橋の貸席で「西洋音楽機械展覧会」を開催した。そのイベント名、当時はすこぶるハイカラに響き、多くの人が「文明開化」を見に押し寄せた。
 椿岳は真面目くさった厳粛な面持ちで「ピヤノ」の椅子に腰掛け、「滅茶苦茶に鍵盤を叩いてポンポン鳴らした。…満場は面喰って目を白黒しながら聴かされて煙に巻かれてピシヤビシャと拍手大喝采をした」(内田魯庵)…聴け、これこそ文明開化の音なのだ。いやこれは見事なイベント屋である。
 息子の寒月によると、椿岳はピアノを店に飾り、「父がマア弾くのだか叩くのだかポンポンなぐりますとね、恐ろしい大きな音がするので珍しがって毎日大勢の人だかりです」…しまいには、喧しいばかりで本人も面白くもなく、嫌気が差して吉原の女郎屋「彦太楼尾張屋」の主人に売ってしまったという。この主人は学問も品もあり、いつも白無垢を着込み、自分を「御前」と呼ばせた相当な奇人変人だったらしい。まあ椿岳の付き合う人である。
 息子の淡島寒月は手拭いを持って銭湯に出かけたが、ふと大阪に行きたくなり、そのまま大阪に行った。さらに奈良や周辺を見て歩き、家に戻ったのは三ヶ月後だった。奇人変人である。
 明治ともなると、井原西鶴の名とその作品を知る人はほとんどなく、ごくわずかな好事家が知るばかりだったという。それを「これは面白い」と広く知らしめ、日本の古典文学たらしめたのは淡島寒月に依るところが大きい。寒月は西鶴本に傾倒、収集し、写本をつくり、これを尾崎紅葉、幸田露伴、石橋忍月、中西梅花らに貸した。彼等もまた西鶴に傾倒し、写本し、巌谷小波らに貸し、また写本がつくられ、西鶴研究が本格化していったのである。
 ちなみに淡島寒月は、後に禅、考古学、キリスト教や進化論に凝り、社会主義にも傾倒したが、旅好きで、全国の玩具を収集し、玩具に囲まれ、玩具に埋もれるような晩年を過ごした。まるで日本玩具博物館ではないか。
 
 井原西鶴の「西鶴織留」は彼の死後に版行されたものである。「とりとめもなく、日本…」について思うとき、この「西鶴織留」の「諸国の人を見しるは伊勢」を想い出す。これについてはだいぶ以前にも書いた。
 諸国より御参宮のため「一村の道行(どうぎょう)も弐百三百人の出立(いでたち)」同じ御師(おし)へ「東国・西国の十ケ国も入り乱れて、道者の千五百、二千、三千と落ち着き、いづれの太夫殿にても定まりのもてなし。勝手いかなる才覚にて此ごとく成りける事ぞ。本膳ばかりか二の膳の品々居(すえ)られける。台所に人の弐百もはたらく者なくては」と覗いて見ると「わづか弐十人ばかりにての手まわしなり」…それは実に合理的な流れ作業で、魚の焼き物も三人ばかりでの鼻歌作業。壁塗りの小手のような物を十枚ばかり火鉢で焼き置き、煮だった大釜で大籠に入れた魚を漬けるように煮て出すと、魚の片面ばかりを、その赤く熱した小手でジュッと焼いて焼き魚の出来上がり。…「万(よろず)の商人(あきんど)までも。伊勢は人にかしこき所を見せずして、皆利発なり」と西鶴は舌を巻いた。
 これは日本の合理的物づくり、オートメーション、アッセンブリライン化の下地ではないか。まるで寿司ロボットが握る「回転寿司」のようである。ちなみに日本初の回転寿司店は仙台であった。私の学生時代の頃である。
 一方日本には、いくつもの工程と手間と時間をかけた「手仕事」の物づくりがある。柳宗悦が全国を回り、これらの手仕事を記録し、その物産を収集したのは、彼の時代にすでに滅びの危機に直面していたからである。その多くは居職の職人の根気仕事であった。
 大量生産が可能な合理的な流れ作業やオートメーション化の物づくりも、無名の職人、匠たちが師匠から伝えられ、黙々と作り続け、弟子や子ども等に伝えていく数多の手作り道具や工芸品の数々も、どちらも日本的な物づくりなのである。

 また奇人変人に戻る。森銑三は偉大な独学の人である。在野の碩学で、書誌学者、学芸史家として名を成した。彼は井原西鶴を研究し、西鶴の真本は「好色一代男」のみで、「好色一代女」「日本永代蔵」「世間胸算用」等は他者の作と主張した。大胆な説であり、当然のように学界から無視された。森銑三は見るからに知性と品位の人のように思えるが、彼もまたかなりな奇人変人だったに違いない。
 今から半世紀近くも前、森秀人は「現代の逆臣」として五十名近くの奇人変人を取り上げた。嘉納治五郎から有名映画俳優、プロ野球選手、太宰治や幸徳秋水、永井荷風、埴谷雄高、正木ひろし、野口英世、花森安治、大宅壮一と実に「とりとめも」ないが、これらの中で、梅原北明ただ一人が、私の中に「北明神社」を祀らせるほどの存在として残った。
 エロ出版の帝王、地下出版の帝王、エログロナンセンスというブームの創始者…。北明の息子・梅原正紀(宗教評論家)が「近代奇人伝」を書いている。その中で父・北明の他、宮武外骨、伊藤晴雨、小倉清三郎、高橋鐵を取り上げている。彼等の共通項は「性」である。しかしこの五人の中で、やはり梅原北明のみが突出している。外骨は別としても、他の三人は性への異常な興味に取り憑かれた者に過ぎない。北明はただ一人、その「思想」を「柔らかなもの」「エログロ」に韜晦し、それを武器にし、巨大な権力をからかい、嘲笑し、闘い続けた奇人だったのである。
 玉川しんめいの「日本ルネッサンスの群像」に添田唖蝉坊、獏与太平、大泉黒石、武林夢想庵、宮嶋資夫、梅原北明ら十人が取り上げられている。これらの中でも奇人変人ぶり、面白さと凄味で、北明のみが突出している。
 
 私は以前、添田唖蝉坊、大泉黒石、梅原北明について、いろいろ調べて長々と書いたことがある。唖蝉坊については確か「流れ歌」で、黒石については「無用の人」だったか、もうデータも失われ、その題名すら忘れてしまった。北明については「北明漫画~オマージュとしての北明伝~」と題した(これは奇跡的にデータが残っている)。私にとって北明こそ、企画者、イベント屋の鑑なのである。
 ちなみに日本近代史・思想史の鹿野政直らも梅原北明を高く評価した。山口昌男も北明の見識、鑑識眼等とその異才と行動を評価し、彼の手掛けた本を収集し、またその周辺の人々を含めた研究を進めている。

 もうひとり、夏目漱石の親友・狩野亨吉が、奇人変人の巨魁であろう。彼は「吾輩は猫である」の苦沙弥先生や、「それから」の長井代助のモデルとされる。亨吉は数理学者、哲学者、文学者であり、三十四歳の若さで第一高等学校の校長となった。また安藤昌益を発掘したことで知られている。京都帝国大学文学科大学初代学長を務め、さっさと退官すると、皇太子裕仁親王(昭和天皇)の教育係に推挽されるも「自分は危険思想の持ち主」と言ってこれを拒絶し、東北帝国大学学長に推挽されるもこれも拒否。古く傾く小さな家屋で「書画刀剣鑑定」業を営み、膨大な数の春画を収集した。それ以前、彼は膨大な書籍を東北帝国大学に寄贈したが、これは今も「狩野文庫」として保存されている。
 私の中には「昌益神社」も祀られており、以前、安藤昌益について「地に潜む龍」と題して二十回近くに分けて書いたことがある。その中で狩野亨吉についても触れた。そのデータも、今はどこに行ったか分からない。

 白崎秀雄の「当世畸人伝」も面白い。「わかもと」で巨万の富を得た長尾よねの物語は、事業や宣伝アイデアの宝庫である。柔道界で「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われた最強の柔道家・木村政彦を完膚なきまで負かした阿部謙四郎。その狷介な性格ゆえ、柔道界から遠ざけられ、今やその名を知る者はほとんどいない。相撲の神様と異名をとった大関・大ノ里萬助など、その人物像と悲劇性が胸を打つ。世界に知られた哲学者でありながら、国内では知る人もなかった安藤孝行や、三井財閥の大番頭・朝吹英二にはあまり興味がない。陶芸家・加藤唐九郎は奇人変人には違いないが、こんな人は決して付き合いたくなく、また大嫌いだ。
 谷川健一の「独学のすすめ」で取り上げられた六人の中では、やはり南方熊楠と、「大日本地名辞書」を書いた吉田東伍であろう。中村十作も笹森儀助も凄い人で、おそらく傍目には奇人変人と映ったであろう。
 またもうひとり、やはり田中正造こそ奇人変人の巨人だったに違いない。彼について書き始めると相当長くなるので、別の機会としたい。