二十代半ばに会社を辞め、放浪の旅に出た。ちょうど八月の半ば過ぎであったように思う。高島埠頭からバイカル号に乗船し、ナホトカに上陸、夜行列車に乗ってハバロスクに着いた。ハバロスクの駅舎の天井は心地よい高さで、広く壮観だった。シベリア鉄道でモスクワに向かった。一週間の列車の旅である。
その列車には私を含め五人の日本人が乗っていた。私たちはすぐに親しくなり、コンパートメントを行き来した。
おひとりは中年の紳士で、そのお名前は失念した。この方は見るからに知的で、落ち着きがあり穏やかな方であった。スウェーデンのウプサラ大学の教授で、言語学を教えているという。ウプサラ大学は15世紀に創立された北欧最古の大学で、屈指の名門校である。彼はバイカル湖畔のイルクーツクで降り、一週間ほど投宿後に再び列車に乗るという。別れ際に大学の連絡先のメモをくださり「いつでも訪ねていらっしゃい」と言った。
A君は高校を卒業して約半年。秋からモンペリエのポール=ヴァレリー大学(モンペリエ第3大学)に入学が決まっているという。モンペリエ大学は13世紀から存在するフランスで三番目に古い大学で、三つに分かれている。卒業生のひとり、作家で詩人のポール=ヴァレリーの名を冠しているモンペリエ第3大学は人文科学系と芸術系があって、A君が文学科なのか社会学科や哲学科なのかは聞き漏らした。留学生用の寮に入るのだという。彼は「現地に着いたら、もう日本人とは付き合いません、日本人と付き合っていたら、フランス語で考えるのが身につきませんから」と言ったことが印象に残った。羞らいがちに語る、おとなしい若者だった。
B君は長髪とむさ苦しい髭面のヒッピーである。花園大学を中退して旅に出たという。コテコテの大阪弁だった。彼もイルクーツクで下車した。バイカル湖周辺で何日か過ごしてから、再びモスクワを目指し、北欧、東欧から巡りアフリカまで行くという。後に私はイタリアで彼の噂を耳にした。ハシシを吸引し過ぎて心臓発作を起こし、病院に担ぎ込まれた日本人の話である。その男の風体や名前から、間違いなく彼であったろう。「で、無事だったの?」「さあ、そこまでは聞いてません」…私にその話をした青年は「日本の恥ですよ」と吐き捨てるように言った。
そして自転車で世界一周の旅をするという、高校を出て半年ばかりのC君である。高校時代に、自転車で二度日本一周を達成し、世界一周の準備をしていたという。彼は大学で過ごす四年間の代わりに世界を巡りたいと、ご両親を説得したそうである。ご両親も了承し、その旅費を十数回に分けて送金してくれるという。C君は軽量のサイクリング用自転車を列車の貨物室に預けていた。その分の料金を払っているらしい。彼は一日一回、自転車を見に貨物室に行った。盗難を警戒していたのかも知れない。彼もイルクーツクで降りた。彼の自転車の旅はイルクーツクのバイカル湖から始まるのだ。
私はA君とモスクワ駅まで一緒だった。彼は別の列車に乗り換え、ポーランドのワルシャワ経由でパリに出て、そこからモンペリエに向かうという。私はモスクワに泊まり、その後レニングラードへ行き、さらにフィンランドのヘルシンキに向かうことにしていた。
A君は「いつかモンペリエに来られることがあったら、あなただけは寮に訪ねてくださっていいですよ。お泊めします。これが寮の住所と電話番号です」と一枚のメモをくれた。
シベリア鉄道の降車ホームで「お元気で」「元気でね、体に気をつけて。…機会があったら連絡するね」と握手し、互いに手を振って別れた。私のもとにインツーリストの女性が迎えに来た。
それからかなりの時が経った。ある朝、私はモンペリエの駅に降り立った。モンペリエに行こうと思って列車に乗ったわけではない。列車がモンペリエに着いたので降りてみたのだ。私の旅は、どこに行こうという目的を持った旅ではない。
駅舎の並びのカフェでクロワッサンとカフェオレをとった。その後、公衆電話からA君の寮へ電話を入れた。電話に出た方とはなかなか話が通じなかった。A君は留守であった。名前を告げ、電話があったこと、夕方前にまた電話を入れると伝えてくれと告げた。まあ、突然だからこんなものだ。
モンペリエは地中海に面した町だが、市街地は内陸部に奥まっていて海辺は遠い。ニースやカンヌほどの著名な観光地ではなく、またマルセイユのように大きくもなく喧騒感もない。しかし古風な石造りの建物、彫刻と噴水の泉、路面電車(トラム)が街路を走る、穏やかで静かな町であった。
道行く人たちにポール=ヴァレリー大学の場所や道などを尋ねたが、パリや他の町では多少は通じた私のフランス語が、なぜかあまり通じなかった。まあ付け焼刃のフランス語だからこんなものだ。
ぶらぶらと街を歩き回り、公園で休み、時間をつぶした。夕方近くに再び留学生寮に電話を入れた。午前とは違う方が電話に出たが、A君はまだ帰っていなかった。私はまた時間をつぶした。そのうち夕闇が迫ってきた。またA君に電話を入れても迷惑だろう。今夜はどこか安い所を探して投宿しよう。貧乏旅行である。
しかしなかなか星のない安ホテルは見つからなかった。これまでの旅の経験から、安宿は駅裏に多い。私は一度駅に戻り、駅を背に向かって左に歩き出し、しばらく行って左に折れた。そうして改めて見ると、意外に地味な街である。まっすぐ歩き続けると雑草が簇生し有刺鉄線が張られた場所に突き当たった。有刺鉄線の向こうは鉄道の操車場のようである。左に折れて操車場を右手に見ながら進めば、駅裏あたりに出るだろう。
ふと、焦げ茶色の石造りの円筒状の建物がある。ドアの上に、見落としそうなオテルと表示された小さな吊り看板が掛けられていた。星はない。
小さな窓が縦に一列あるだけで、どこか陰鬱な建物である。まるでその円筒部分はバスチーユ監獄に似ていた。
ドアを開けると中は薄暗く、ずいぶん古びている。小さなカウンターの中に中年男が座っていた。挨拶や「いらっしゃいませ」を言うわけでもなく、私を無言で見つめた。なんと陰気な奴だろう。
部屋が空いているか、泊まれるかどうかを尋ねると泊まれるという。差し出されたカードに記入していると、宿泊料は前払いで、パスポートを預かると言う。男はカードと金を受け取り、パスポートを背後のキーボックスに置き、私にキーを渡し五階の部屋番号を伝えた。キーボックスを見る限り、宿泊者は私だけのようである。
部屋は最上階で、五階までの階段はギシギシと軋む木製で狭く、まるで梯子のように急であった。階段を上りきると二メートル幅くらいの木製の廊下に面した部屋があった。廊下もギシギシと軋む。
ドアを開けるとこれもギーっと軋んだ。部屋に入ると廊下と同様の木製の床である。小さなテーブルと椅子が一つ、そして奥の壁際にベッドがあった。天井は裸電球一個である。廊下に出るとその階の部屋は三室だけのようであった。廊下も裸電球が二つぶら下がっている。廊下の薄暗い奥にトイレがあった。私は用を足して部屋に戻った。
一日歩き回って疲れていた私はさっさと横になることにし、灯りを消した。廊下側の壁の上部には透明ガラス張りの枠がはめこまれていて、そこから廊下の灯りが差し込んでくる。だから室内は決して暗くはない。私はすぐ眠りに落ちた。
ふと目が覚めた。誰かがぶつぶつと呟きながら、ギシギシと廊下を歩いている。その声と廊下の軋む音に靴音が混じる。どうやら行ったり来たりしている様子である。それが続いている。私はそっとベッドから起き、耳を澄ました。
誰だろう。宿泊者だろうか。…私は音の立たぬように裸足のまま、椅子を持って壁際に行き、椅子にあがりガラス越しに廊下を覗いた。…廊下の灯りの下に白髪の小柄な老婆がいた。老婆はぶつぶつと呟きながら廊下を行ったり来たりしている。
やがて老婆は私の部屋のドアの前で立ち止まった。彼女はドアのノブをガチャガチャと回し始めた。私の膚は粟立った。老婆は開けるのを諦め、ドアから離れ、またぶつぶつ言いながら廊下の奥の方に行った。そして私からは見えなくなった。その後はなんの物音もしない。廊下の軋む音も、ドアのノブを回す音も開けた際の軋む音もせず、静まりかえっていた。
私はベッドに戻った。全身に気持ちの悪い汗をかいている。耳を澄ましたがなんの物音もしない。廊下から差し込む光で時計の針を見た。午前の二時過ぎである。もう眠れなかった。
この部屋には窓がない。外が白む様子も分からない。私は何度も時計を見た。とにかく、朝一番でここを出る。…
針が五時を回った。もう外は明るみ出した頃であろうか。私は荷物を持って廊下の外に出た。急な階段に気をつけながら一階のカウンターまで降りた。誰もいない。カウンターの小さな鐘を振った。やがて例の男が仏頂面で出てきた。チェックアウトを伝え、部屋のキーとパスポートを交換した。私は転げるように外に出た。夜は明けつつあった。
私は駅舎に向かった。時間をつぶし、駅舎の並びのカフェでクロワッサンとカフェオレで朝食をとった。
その午前中にA君の寮に公衆電話から連絡を入れた。やっと彼と話すことができた。A君は驚きながらも喜んでくれた。午後四時にカフェで会う約束をした。
約束の時間に、A君は途中で出会ったという三人の留学生の寮生たちと連れ立って現れた。再会の挨拶とそれぞれの自己紹介をした。三人はカナダ、イタリア、ベルギーからの留学生たちであった。
私はA君に、前夜泊った安宿の出来事を逐一話し、A君がそれを友人たちに通訳した。全員が顔を見合わせ、驚いたり笑ったりした。「本当?」と、私が怪奇譚好きでそんな話をしていると思ったのだろう。そのうち一人が言った。「そんな所に、そんな建物あったかな?」…それを受けてもう一人が言った。「いや、僕は初めて聞いたな」「あっちまで行ったことがないから分からないけど」「どうだい、見に行ってみようじゃないか」
私たちは連れ立って外に出た。私が説明した。駅舎を背にしばらく左に行く、そして、この角を左折する、そのまましばらく行くとやがて有刺鉄線の柵と操車場に突き当たる。また左折して道なりに進むと…今はまだ明るいから、少しあたりの様子が違って見えるが、その先の右手に、石造りの円筒形の塔のような建物が…そこに塔のような…無いのである。どこにも見当たらないのである。
私たちはしばらくその周辺を歩き回ったが、そんな建物は見当たらなかった。有刺鉄線の向こう側の遠くに操車場は見えるのだが、私がこの辺りと主張した場所には、そのような建物は見当たらなかったのだ。近くに何棟もの建物はあるのだが、ついにあの特徴的な建物は探すことができなかった。
その夜、留学生寮は私が体験したことと、その消えた円筒形の安宿の話で持ちきりになった。私はA君の部屋に一泊させてもらった。
モンペリエ駅は十年ほど前から駅名もサン=ロシュ駅と呼ぶようになったそうである。その駅裏が、今どうなっているのか知らない。だいぶ変貌しているに違いないが…。私のモンペリエでの不思議な体験の話である。
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