関山(かんざん)風雪 紅河の雨 客路十年事(こと)なお違(たが)う
半生空しく過ぐ旅窓の夢 杜鵑(とけん)頻りに勧む帰るに如(し)かずと
これは千葉卓三郎の辞世の詩である。まことに寂寥たる詩ではないか。杜鵑とはホトトギスのことである。古代蜀の地が荒れ果てていた頃、杜宇という人が農業を指導し、やがて帝王となった。彼が死ぬとその霊魂はホトトギスに化身し、農耕に適した晩春になると鋭く鳴いて民に知らせた。しかし後に蜀が秦に滅ぼされると、「不如帰去」帰った方がいい、帰りたい、しかしもう帰ることが出来なくなった、と鳴きながら血を吐いたと故事にある。
卓三郎は天涯孤独な人で、不遇のうちに三十一歳の若さで、血を吐いて逝った。
彼は歴史に埋もれた無名の人ではない。毎年憲法記念日になると、千葉卓三郎の縁の地で、彼の手になると言われる憲法草案に関する講演会やシンポジウムが開催される。
その地は五日市町(現あきるの市)や、仙台、東京などである。また自由民権運動が盛んだった鶴川(現町田市)や八王子、福島や、同じように地方の民権家たちによって私擬憲法案が起草された岩手や土佐(高知)などである。これらは、現在の平和憲法や人権を守ろうという立場の人々によって、改憲、反動等への抑止として企画されることが多い。
この千葉卓三郎を発掘したのは、東京経済大学の歴史学者・色川大吉教授と色川研究室助手の江井秀雄や、色川ゼミの新井勝紘ら十数名のゼミ生たちである。1968年(昭和43年)の夏、彼らは東京都西多摩郡五日市町深沢にある深沢家の屋敷跡に残る土蔵を開けた。
その数年前より、色川は深沢家当主へ、蔵を調べさせてもらいたい旨の交渉を続けていたが、断られていた。当主でさえ開けたことのない土蔵には、他人に知られたくない文書もあるかも知れないからだ。色川と彼の研究室は、三多摩の自由民権運動の研究を進めるため、この地方の資料調査を行っていた。
五日市町の豪農で民権家として知られた内山安兵衛の土蔵の文書の研究も進んでいた。内山家と同様の豪農が深沢家であった。この内山安兵衛とともに、深沢名生(なおまる)と、その子の権八も自由民権運動の指導者だったのである。
深沢は五日市の最も奥深い山里で、深沢家は六十二町歩の大地主で代々名主を務めていた。蔵開けを渋っていた深沢家の当主が亡くなり、名生の曾孫に当たる都立立川短期大学学長で財政学教授の深沢一彦が新当主になったとき、「何もでないかも知れませんが、どうぞ存分にお調べ下さい」と、やっと了解が取れたのである。
その土蔵は半ば朽ちかけていたという。蔵の一階は分厚い埃を被った古伊万里などの焼き物や什器で埋めつくされていて、文書類は見当たらなかったそうである。二階に上がると、これもまた分厚い埃を被った木箱や行李、風呂敷包みが、鼠が食い破ったか穴が開き、ぼろぼろの状態で、雑然と積み重なっていたらしい。それらを下ろして開けてみると、文書類が詰め込まれていた。中から紙食い虫が這い出し、鼠の尿で湿っていた。
そっと取り出して調べると、どうやら「民権」の資料である。次々に運び出し、並べて数えると約三千点に及ぶ宝が出た。結社の規約、会運営の文書、演説会や討論会の記録、学習用の筆写したテキスト、書簡類…そして薄い和紙に楷書体で書かれた憲法の草案らしき和綴じ文書。
それには「日本帝国憲法」「陸陽(りくよう)仙台 千葉卓三郎草」と書かれていた。この人物は誰なのだろう。それまで全国で知られている私擬憲法草案は十数編である。名の通った知識人の団体・東京嚶鳴社の草案、土佐立志社の植木枝盛の草案、慶應義塾系交詢社の自由民権運動指導者たちの草案、地方の著名な知識人や指導者たちの草案等である。これは千葉卓三郎なる人物が、それらの草案のいずれかを筆写したものではないかと考えられた。
色川研究室は時間をかけて、その内容を精査した。そして明らかになったことは、これまで全く知られていなかった五日市周辺の無名の人々が集まって、議論と検討を重ね、二百四条に及ぶ実に民主的かつ現代的な憲法草案を生みだしたということだった。色川大吉は、これを「五日市憲法」と命名した。
他の文書資料から、千葉卓三郎がどうやら仙台藩の出身であることや、三十一歳という若さで東京の病院で亡くなったことは知れた。それにしてもこの人物はいったい何者なのだろう。
なにより、この明治十四年に起草されたらしい「五日市憲法」は、人権意識の徹底と理解の成熟度においては、それまで知られていた私擬憲法の中で群を抜いた優れたもので、今日の日本国憲法に引けを取らない。明治二十三年に公布された大日本帝国憲法と比すれば、欽定憲法である大日本帝国憲法の下らなさがよくわかるというものである。
大日本帝国憲法が公布された時、官に駆り出された民衆が、万歳を唱えながら提灯行列をした。それを見た皇室侍医のエルヴィン・フォン・ベルツは、日本人民を哀れに思った。「彼らはこの憲法のことを何も知らないのだ」と。人民は、この憲法の本質を知らないという意味である。また中江兆民は、その条文を一読後、鼻先でせせら笑うとともに、深く落胆したのである。
さて、この突出した私擬憲法草案を生み出し、これを静かに土蔵の奥に眠らせていた深沢の地は、杉や檜林で暗い山の中にある。片側を深沢川が流れ、片側山が迫った狭い傾斜地で、畑作を営む。水田はほとんどない。
江戸時代、本途物成(ほんとものなり)という本年貢と、小物成(こものなり)という雑税で、合わせて四十六石分しかなかったという。深沢、五日市の産業は山から産出する薪炭と杉、檜と、養蚕であった。深沢川は秋川に注ぐ。
秋川から筏を組んで多摩川へと材木を出荷した。そこから五日市街道、青梅街道を通って江戸に運ばれたのである。江戸は火事の多い町であった。大火の度に杉や檜は高騰し、五日市は裕福な土地であった。そして江戸の情報は入りやすかったのである。
また五日市は山から産出した薪炭等と、江戸から入る商品の市が五の日に立った。これが地名の由来であるが、そんなことから江戸の情報は入りやすい土地だったのだ。維新後、絹が横浜に集積されると、その価格が五日市の経済に直結した。絹も比較的に裕福な土地にしていたのだ。彼らは東京や横浜の情報に敏感であり、また接しやすい環境にあった。そのため政治に関心が高く、教育にも熱心であった。五の日の市も続いていた。
千葉卓三郎とは何者なのか。この無名の人物の解明は江井秀雄、新井勝紘らに依るところが大きい。彼ら色川研究室の青年たちの追跡調査によって、ついに宮城県志波姫町の戸籍簿に千葉卓三郎を見出した。その戸籍簿は壬申(みずのえさる)の明治五年に、江戸時代の宗門人別改帳を廃止して作られたため、「壬申(じんしん)戸籍」と呼ばれている。しかしこの壬申戸籍には、氏神や宗門、身分が記されており、世界に類例のない戸籍簿である宗門人別帳を基礎にしていることが見て取れる。
陸前国栗原郡白幡村弐百二十番地居住
氏神 白山社
宗門 曹洞宗大光寺 平民農 明治十六年十一月十二日死亡
父 宅之丞
千葉宅三郎 嘉永五年六月十七日生
彼は自ら宅を卓に改名したようである。五日市では昂然と、そしてユーモアたっぷりに「自由県下不羈郡浩然ノ気村ノ住人、ジャパン国法学大博士タクロン・チーバー氏」と名乗っていた。タクロンは「卓論」であろうか。その時彼は五日市町の公立小学校である勧能学校助教員であった。
白幡村は現在の志波姫町である。先年六月の大きな地震で山が大崩落した栗駒山を望見し、白鳥が飛来する伊豆沼も近い。冬は冷たい栗駒颪が吹く村である。父宅之丞は仙台藩組士で、宅三郎は伊豆野城内の武家屋敷で生まれている。彼は複雑で皮肉な家庭事情の下に誕生し、この影は一生彼について回った。
宅之丞の妻さだは後妻だった。彼女は子に恵まれなかった。死別か離別かは不明だが、先妻には男児の連れ子がいたが宅之丞との間には子がなかった。相続者がなければ家は断絶する。さだは夫の宅之丞に妾を勧めた。子を産むためだけに、金成村のちかという若い娘が妾となって千葉家に入った。ちかは宅之丞やさだの思惑通り懐妊したが、彼女が出産前に宅之丞が重病を患い、余命幾ばくもないことが明らかになった。ちかの子が女だった場合、宅之丞が「存命中に」養子を迎えておかなければならない。
その頃の幕府や伊達家のご法度では、養父の年齢を五十歳以下十七歳以上に定めていたのである。宅之丞は間もなく五十になる。彼は先妻の連れ子だった利八を養子に迎えた。利八は二十八歳になっていた。やがて皮肉にも、ちかは元気な男児を出産した。その宅三郎の誕生から一月半後に宅之丞が亡くなった。こうして血縁のない利八が千葉家の家督を相続し、宅之丞の血を引く宅三郎は次男として届けられたのである。
ちかは宅三郎が三歳になると金成村の実家に戻され、二度と子どもに会うことを許されなかった。封建社会とは実に悲しい時代だったのだ。
宅之丞の妻さだは、夫に妾を勧めて千葉家の存続を図った女性である。また役目の終わった卓三郎の実母ちかを実家に帰した女性である。記録はさだを「雄壮活達、恰モ男子ノ如ク小事ニ関セズ、優美柔順ナル徳ヲ具備」した女性として伝えている。
さだは卓三郎に大きな影響を与えた。後の卓三郎に見られる思想の峻烈さ潔癖さは、どこか非情さすら感じさせる。これは、さだの精神と薫陶によるものかも知れない。さだは「次男坊」として家督を継ぐことのできない卓三郎を、当代一流の学者の下に学ばせようと図ったのである。学問で身が立つようにという具体性を持ったものではなかったかも知れないが、さだは卓三郎を愛し、教育に力を注いだ。また卓三郎も利発な子どもであった。
さだは、仙台の藩校養賢堂の学頭として、江戸から著名な大槻盤渓が就くことを知るや、卓三郎を仙台の養賢堂に入れようと図った。さだは卓三郎をこの盤渓の下で学ばせ、ゆくゆくは千葉家の分家を起こさせようと考えたのである。さだの兄は高階重信(三畏)という高名な医師であったことから、大槻家との交流もあった。さだは兄に頼み込み、盤渓の下で卓三郎を学ばせることに成功した。卓三郎は養賢堂に入らず、盤渓の家に住み込み、直接師事することになったのである。文久三年(1863年)の春である。五十四歳になったさだは、十一歳になった卓三郎を仙台に送り出した。
大槻盤渓は代々一関藩や仙台藩に仕えた優れた学者の一族である。盤渓は大槻玄沢の次男で、江戸生まれであった。玄沢は一関藩医の出で、江戸で杉田玄白や前野良沢に蘭学と医学を学び、最初の本格的な蘭学塾として著名な芝蘭堂(しらんどう)を江戸に開塾し、後に仙台藩医となった。盤渓は昌平坂学問所(昌平黌)に学び、学問修業のため京、大坂、長崎など各地を回って、佐久間象山や高嶋秋帆(しゅうはん)など当代一流の学者たちと深く交わった。彼はロシアと友好を結び欧米列強を牽制する外交政策を説いた。当時湧き起こっていた攘夷運動を愚論として強く否定し、開国を主張したため命も狙われ、その説の峻烈さから敵も多かったようである。ちなみに盤渓の子が、後に国語辞典「大言海」で名高い国語学者の大槻文彦である。
盤渓は聡明な卓三郎を可愛がったようである。卓三郎が盤渓の下で学んだ六年半は、彼の知性、教養、開明的思想、そして精神に大きな影響を与えることになる。やがて時代の奔流がこの師弟を飲み込み、弄ぶのである。
しばらく、江戸中期から後期、幕末史談を続けたい。
明和八年(1771年)にロシア船が阿波に漂着している。続きロシア船は安永七年に厚岸に来航した。
先ず林子平のことである。子平の姉が藩主伊達宗村の側室になったことから、彼は医師の兄と共に仙台藩士として召しかかえられた。子平は藩に対し経済政策や教育に関する進言をしたが受け入れられることはなかった。子平は禄を返上し、藩医の兄の気楽な部屋住みとなって、長崎や江戸など各地を歴遊し、著名な学者たちを巡って交友と修学を積んだ。その中に大槻玄沢や工藤平助、桂川甫周らがいる。玄沢は大槻盤渓の父である。工藤平助は和歌山藩医の長井常安の三男に生まれたが、江戸詰め仙台藩医の工藤丈庵の養子となった。犀利な蘭学者、経世家であり、天明三年に「赤蝦夷風雪考」を著して田沼意次に献上している。
子平は「富国策」を仙台藩家老に出したが採用されることはなかった。また彼は「三国通覧図説」「海国兵談」を書き、ロシアの脅威と海防を説いた。これが松平定信の幕政に危険視され、版木を没収され発禁処分を受けた。子平は仙台の兄の元に強制送還され、蟄居を命じられた。直後、ロシア公使ラックスマンが大黒屋光太夫らを伴って室蘭に来航している。
子平は「親も無し、妻無し子無し版木無し、金も無ければ死にたくも無し」と、自ら「六無斎」と号して蟄居のまま亡くなっている。しかし彼の「三国通覧図説」は長崎からオランダ、ドイツに渡り、ロシアにおいてヨーロッパの各国語に翻訳されており、後にそれが「小笠原諸島」の日本領有権の根拠となったのである。
ちなみに子平は高山彦九郎、蒲生君平と共に「寛政の三奇人」と言われている。私に言わせれば、高山彦九郎は単に尊皇主義の狂人に過ぎず、尊皇を説くため生涯諸国を周流している。安藤昌益的に言えば「諸国に周流して不耕貪食す。失りはなはだしき者なり」「己れ耕さずして貪り食い、『尊皇』を売りて諸国に周流し…『尊皇』で諸侯に貴ばれんと欲し、…貰ひ食ふに足ると思い、この言をなす。…その知の底の程あらわれ、浅猿(あさま)し」「世界の大敵…大愚の至りなり」「『尊皇』を為さんよりは、何ぞ、直耕して自然の直行を為さざるや」である。この高山彦九郎と後の宮崎滔天ほど暑苦しく鬱陶しい日本人はいないのではないか。…私は滔天ファンだが。
蒲生君平も水戸学の影響を受けた尊皇主義者で、その点私は評価しない。そもそも尊王論は不合理であり、水戸の尊皇論は狂気である。ロシアの脅威と北方防備を説いたことは子平と同じだが、子平には尊王意識も攘夷論もなかった。君平は子平を蟄居先に訪ね、「落ちぶれ儒者」と笑われて憤激したという逸話が伝わっている。
君平の出で立ちは乞食そのものだったのだ。その熱烈な尊皇主義から出たことだが、君平は各地の歴代天皇陵を旅し、その修復を訴え「山稜志」を著した。その中で「前方後円」と記し、後の世に「前方後円墳」の言葉を定着させたたことは評価したい。彼は江戸駒込で塾を開いたが、極貧のうちに亡くなっている。
さてその後である。寛政八年、イギリス人ブロートンが日本沿岸測量を目的に室蘭に入った。翌年にはロシア人が択捉島に上陸している。文化一年(1804年)ロシア使節レザノフが漂流民護送のため長崎に入った。文化四年にはロシア船は択捉、樺太に上陸し、利尻島に侵入して幕府の船を燃やした。文化五年イギリス軍艦が長崎に入った。この文化年間、国後島でロシア軍艦艦長のゴローニンを捕縛したが、高田屋嘉兵衛が国後島沖でロシアに拿捕されている。またイギリス船が浦賀に来航した。文政七年は、イギリスの捕鯨船員が常陸の大津浜と薩摩の宝島に上陸している。天保八年(1837年)アメリカのモリソン号が浦賀に入港したが、浦賀奉行はこれを砲撃した。その処置を批判した渡辺崋山や高野長英が処罰されている。弘化元年フランス船が琉球に来航し、三年にはイギリス軍艦、フランス軍艦が入った。またアメリカ船のビッドルが浦賀に来航し通商を求めたが、幕府は拒絶した。嘉永五年、幕府はオランダの商館長よりアメリカ船の日本来航計画を知らされるが、何の策も持たなかった。千葉宅三郎が生まれた年である。そして翌嘉永六年、ペリーの黒船が浦賀に来航した。
ざっと歴史を追ってみても、江戸中期以降、海外からの波がひたひたと日本沿岸にうち寄せている様がわかる。江戸後期ともなれば、真に犀利な人ならば攘夷の無効は瞭然である。攘夷は愚論なのだ。あまつさえ尊皇とは愚の骨頂であり、全く合理性がない。
文化六年、仙台藩の藩校養賢堂は、大槻平泉が第四代学頭に就いて以来、大いに充実した。大槻玄沢は平泉と共に、西洋医学と蘭学和解方(わげかた)を設置した。平泉の子の習斎は、養賢堂を総合的な学問所として組織を再編、拡大した。現代の大学に近い。蘭学の他にロシア語科を設け、さらに大砲の鋳法・製造科、造船科、操銃術科を開いた。語学、医学、技術習練、開国・海防・外交政略、富国経世の学問所である。千葉卓三郎は学頭の大槻盤渓の家で起居を共にし、盤渓に伴って養賢堂に通ったものと思われる。
幕末の孝明帝はゼノフォビアであった。こんな帝から開国の勅書をもらうことは全く不可能だったのだから、幕府はさっさと開国を決めればよかったのだ。それまでは朝廷を全く無視していたのだから。しかし幕府はここで、それまで無視していた天皇の詔勅を得て、開国に伴う責任のリスクを分散化しようという、実に日本的伝統的な「責任所在の曖昧化」を謀ったのである。
案の定、孝明帝は「聴かぬ聴かぬ! 聴かぬぞよ! ええい絶対ならぬぞよ!」とヒステリックに喚き、そのため、尊皇攘夷論が全国に沸騰した。寝た子を起こしたのである。それまで何の権力も持たぬ神主の最高位で、免許状の発行名義人に過ぎなかった天皇が、俄然「権力者」と写ったのである。これを外国公使たちは「権力の二重構造」と見た。水戸藩は全藩あげて尊皇狂気に陥った。長州は乗じた。龍馬も奔った。尊皇攘夷が倒幕に変じた。
孝明帝は、七年にわたって京都守護職として京の治安に当たり、公武合体の推進者でもあった会津藩の松平容保に最も信頼を寄せた。孝明帝は公武合体論者だった。孝明帝から遠避けられていた貧乏貴族の岩倉具視、不平貴族の三条実美の倒幕派と、薩長の倒幕派(彼らは攘夷から開国に変じていた)にとって最も邪魔な存在は、帝その人と松平容保なのだ。ある日、ゼノフォビア以外ではいたって壮健だった孝明天皇が突然亡くなったのである。毒殺説が流布する由縁である。薩長土と岩倉、三条等はまだ十四歳五ヶ月の、女官に囲まれて世事に全く関心もなかった(※1)幼弱な少年(※2)を手に入れ、王政復古のクーデターを断行した。
(※1)この明治帝は大人になっても世事に全く関心も興味も示さなかったため、伊藤博文や山県有朋に随分叱られている。山県に至っては「誰に担がれていると思ってるんだ」というような意味のことを言って叱っている。明治帝が最も関心を寄せたのは跡取りをつくることと、跡取りの健康であった。
(※2)坂本龍馬、桂小五郎、西郷隆盛らの書簡では、この少年は「玉」と呼ばれている。「何とか玉を手に入れたい…」「玉を奪はれて残念…」「うまく玉を抱へた」
徳川慶喜は新政権に恭順の姿勢をとったが、会津の松平容保と共に朝敵とされた。また薩摩方は鶴岡の庄内藩を目の敵にした。これは西郷隆盛が江戸を混乱に陥れようと、密かに浪人や盗賊を雇い入れて、度々火付け強盗・殺人を働かせた(御用盗)が、この時に幕府方や江戸警備に当たっていた諸藩と共に、火付け強盗団を追いつめたのが庄内藩の武士たちであった。火付け盗賊団は次々に薩摩藩邸に消えていく。庄内藩の武士たちは薩摩藩邸に火を放ってこれを討った。この「御用盗」は西郷隆盛の陰惨で謀略的な一面を如実に示している。この事件以来、薩摩は庄内藩を目の仇にした。
大槻盤渓は仙台藩の思想的中心をなしていた。彼は薩長土の新政権に強い不信の念を抱き、奥羽列藩の結束を促し、これまでの経緯から義は幕府にありと親幕を鮮明にした。仙台藩は日和見的優柔不断な態度をとり続けていたが、会津と庄内がいかに恭順の意を示しても、これを許そうとしない薩長土の新政権に強い不信感を抱いた。伊達慶邦も上杉斉憲も会津や庄内に同情し、奥羽二十五藩は連名して嘆願書をしたため、これを新政権へ手渡した。しかし嘆願書は紙屑のように捨てられた。やがて奥羽諸藩は新政権の密書の内容を知ることになる。それには「奥羽皆敵」と書かれていた。奥羽は朝敵なのである。
こうして奥羽二十五藩は白石に会同し奥羽列藩同盟ができた。さらに越後六藩が加わり、奥羽越三十一藩の反薩長新政権の大同盟が成立した。諸藩は続々と白河口に結集した。千葉卓三郎の師・盤渓は列藩同盟結成を強く支持した。慶応四年(1868年)三月、千葉卓三郎は十六歳、志願して白河に赴いた。慶応四年閏四月二十五日、白河城攻防から戊辰戦争が始まった。
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