モーゼパークを後にして続いての目的地は能登最高峰の「宝達山」とその山頂に鎮座する「手速比咩神社 上社」へと向かいます。
途中、マップを見ていたら「宝達志水町トトロ」と言う場所があったのでちょっと寄り道
トトロは、どうやら老朽化で解体されてしまったんだとか。代わりに猫ばすがいました。
山頂駐車場までは、車で上がって来られます。猫ばすのモニュメントから南に下って林道を登ること20分ほどです。
北側からも登れるルートがありますが(私どもはルート選択ミスで間違って北側から登ってしまいました。けっこう荒れていて途中狭い道の連続でかなりリスキーですのでご注意を)
山頂には広い駐車場とトイレがあります。
車を置いて、テレビ中継塔のある山頂を目指し鳥居を潜ると手速比咩神社 上社へ到着です。
手速比咩神社 上社
祭祀:手速比咩神(別名:奴奈宜波比売命・高志沼河比賣命・奴奈川姫)
(奴奈川姫:姫川の神、翡翠ひすいの神とされる『古事記』には大国主の神話の段に登場し、大国主に求婚され結婚する。『先代旧事本紀』や『出雲風土記』など様々な民話に登場し諏訪の神「建御名方神」の母とされる。 )
由緒:
祭神又の御名を奴奈宜波比売命 或は 沼河比売命と伝へる 宝達山頂と山麓 両所に社殿あり 上社、下社と称す 上社は 養老年間 泰澄開山と伝へ 旧押水郷 三十二ヶ字の総社として 崇敬せられ 下社は崇神天皇の御宇創建と云はれ 旧大海一郷の総社にして応永年間能登国 守護畠山満則神領三百石を寄進せしと 伝ふが 天正十二年九月佐々成政末森城 攻撃に際し兵火に遇ひ社殿等灰燼に帰し 文禄三年神主甚之丞は紺屋町村名主佐介 と相謀り社殿を八ケ村の総社として再建し 現在は押水町字東間の氏神として崇敬される
境内の椿の社叢は近隣では気多大社の入らずの 杜に次ぐものなり 大橅は松雲公の時代に 其の配与を得たものなり 何れも昭和 四十七年 押水町文化財天然記念物 に指定さる(境内由緒案内より)
由緒:写真クリックで拡大
(下社は、ここから南西方向直線距離で3キロほどの場所に鎮座しています。)
宝達山
宝達山の歩みの中で、とりわけ輝かしく、それでいて半ば忘れられているのが、金山としての歴史だろう。採掘がいつ始まったかはわからない。加賀藩の記録では1584(天正12)年に金山を開山したとあるが、それよりずっと以前から露天掘りが行われていたようだ。ともかく、1628(寛永5)年に大規模な崩落事故が発生するまで、約半世紀にわたって加賀藩を支えた金鉱であった。大判にして約3500枚が採れた年もある。(下記リンクより冒頭部分引用)
一等三角点
山頂広場よりの眺望
さすが能登最高峰だけあります。眺望は山頂側からでは無く駐車場脇の展望台の方が千里浜方面を見渡せるのでお勧めです。
奴奈川姫(出典:WIKI)
手速比咩神社の祭神“手速比咩神”ですが一般に古事記に登場する“奴奈川姫”の呼び名のほうが有名です。特に越の国では有名で“奴奈川姫”で検索するとたくさんの伝説や伝承がヒットします。
大国主との間に生まれたタケミナカタの母神と言う位置づけから諏訪地方でも祀られている神社も多く先日記事にした諏訪大社上社 摂社御射山神社の子安社にも祀られています。(上諏訪手長神社 州羽神系図より)
【マップ】
(宝達志水町トトロ)
(手速比咩神社 上社)
いつもコメントありがとうございます。
加賀藩のお膝元ですからね。宝達山は、貴重な採掘場所だったと思います。
信濃国は古くは「科野」と充てられていたようです。「科の木」に由来する説が古くから唱えられているそうです。
木に纏わる由来ならばやはり「ミシャグチ」との繋がりも無視できないでしょう。国名がそのまま地元に縄文の古くから伝わる神様に繋がっているわけです。
とてもいい眺望。「科野国」「建御名方命」の文字があります。「信濃」は、もとは「科野」だったのでしょうか。
次回も楽しみにしてます。