ビッグデータの話。ともいうけど、記号と再帰を巡っている、昨今の響けブログ。 blog.goo.ne.jp/hibikeblog/e/d…
こないだ記憶について書いてしまったのだが、記憶というのは、記録と違って(これって再帰と再現にすごく関連すると思うのだけれど。ちなみに再帰とは、ヒトの言語において重要な概念、または言語学の主要概念であります)要するにまちがってるんだよね。ヒトが記録すると、たちまち忘れちまったというのと記憶違いというのが混入します。
これを一歩すすめると、ひとは記憶ってのを持ってて、記録なんかと違うんだと。忘れたいことは忘れたっていいんだ、そいつは……(ええい)権利だ。なんてふうにも考えることができるわけですね。
先日、ビヨンセのくちパク釈明記者会見という動画を見ていて、そういえばロシアの五輪でなんだったか(「忘れちまった」が)一個点灯しなくて、その晩担当者が「ホテルで偶然に10箇所(だったと思う)のナイフに刺さって事故死」したという事件があったことを思い出しました。アメリカではそういうことが起こらずにビヨンセのくちパク釈明記者会見といった事件が起こるんだなあと思いながら、要するに世の中「はれの舞台」とかそういうリアルタイムなフォーマルな場所での「アクシデント」というものを許容しなくなっている。あるいは、そんなもの技術でなんとでもカバーできるんだから、保険かけときゃいいじゃん、という発想になっている。それ自体、なんかちっとも愉快じゃないなあと思いつつも、思おうが思うまいがそうなってるよ、という印象はぬぐえないのであります。
記録のでっかい親玉みたいのが、データベース、でありますね。(このデータベースってのが私は大好きで、特にあんまりでかくないデータベースが好き、中くらいのデータベースが好みなんですが、まあそういう話はおいておいて)記録を徹底させて、なんでも参照できるようにする、テキストだけじゃなくて画像とかでもささっと画像解析して、他のデータとマッチングする。まさにビッグデータですね。そういう活用がリアル社会に持ち込まれていくとすると、たとえば空港でニセのビザで出国しようとしても難しい、車のスピード違反なんかも全車検挙!といったいろいろな管理が徹底されるはずです。
しかし、そういった近未来を描くSF映画で、『ガタカ(GATTACA, 1997, アメリカ)』というのを以前教わりました。(出典こちら)これは人々が完全にヒトゲノムで管理される社会を描いている。人々はよりよいゲノムを獲得するために婚姻し、出産する。尿、髪などで個体が同定され、ゆきずりの人というのはあり得ない社会(笑)。しかし最後に、主人公は夢だった宇宙へ行くというその直前に、そのことにいやけがさし、ずっとなりすましてきた(にせの尿や頭髪を用意して検査をかいくぐってきた)細工を捨てて、自分のDNAの尿を検査係に提出します。(映画見たい方へアテンション:この先オチ書きます)
果たして検査機械は「本人にマッチしない」というアラートを出し続けるのですが、係の人が、「何かの間違いだ」といって通してしまう。しかし実際、現実の世界でもよく、機械が間違ったわけではないんだけど、いまちょっと操作の手順を間違えたからエラーが出ただけなんで、エラー解除するという場面がありますよね。バス料金とか、レジとか。システムのほうも、そういう現場のニーズに対応できるように、たいがい回避措置込みで作られています。言い方を変えれば人間は、機械が属するシステムのかなり上位にいる。だからシステム全体を使わないこともできるし、部分的に当該の操作をキャンセルすることもできる。
ただほんとうは、機械は間違わないのだから、どこまでも機械のほうが正しいはず。だけどそれじゃ物語が進まないから、人は間違いを選択するんだよね、「エラー解除」によって。「エラー解除」を選択するというエラー。これはまさに再帰的です。
ユニクロのINESのコレクションが気に入って、毎回オトナ買いにいそしんでいるのだが、ま、デザインが気に入ったとかいうことは半分で、半分はこのユニクロのプロジェクトというビジネスの"つくり"につられたい、だまされたいという一心もあって、のことだ。
パンフレットなんかもとてもよくできていて、ユニクロが販促的に言いたいことを、INESさんにまったくINESさんふうに言ってもらっていて、これじゃああまりにもコピーすぎるじゃないか、と私は思うのだけれども、その中にキラリとファッションというもののエッセンスもある。
そのようなセールストークコピーの中で、エッセンスは「違和」を起こしている。だからすぐ見つかる。
それはINESの第二弾のカタログの最終見開きのユニクロのデザインディレクターとの会話ふうの短い文章なのだが、おふたりのワードローブについての理解の片鱗が露出しているのだ。キーワードのひとつは「古着」。古着は、現在のこのユニクロの販促にまったく関係ない(将来的にはあるかもしれないけど)。古着がなぜ出てこなければならなかったかというと、このコレクションをワードローブとしてとらえ、たくさん買えば「素敵な」着こなしが「楽に」決まる、ということが言いたいからだ。
この「古着」は微妙に記号じゃない。古着が例に出されることによって、ワードローブの大切さが「説明できる」という考えがものすごく高度だからだ。これがファッションのエッセンスであり、極めて貴重な情報だ。ただ一方で、大半の消費者には、「古着」のくだりはほとんど意味を持たないだろう。それを残したのは企業文化というべきである。
さて、ワードローブというコンセプトを、私ははるか昔、アンヌモネというアパレルから教わった。そのときに抱いた強い印象を今でも覚えている。理由は簡単だ、それはボキャブラリーのアナロジーだからだ。
ワードローブを持っている、その全体像を持っているということが、いかに毎日着る服というものに影響を与えるのかということが、このユニクロの対談のおかげか、ほんの少しわかりはじめているようだ。それは記憶に似ている(そりゃそうだ、ボキャブラリなんだから)。記憶を持っているからこそ、選んで、組み合わせることができるのだ(そのようにして文章をつくるのだ)。
ウェブの時代になって、記憶は変わった。しかしワードローブは頑強にデジタル化しない。ユニクロはオンラインで簡単に買えるが、いったん自分のワードローブに加わったものは、へたしたら仕舞い込んだが最後、さっぱり忘れてしまうかもしれない。しかもそいつは「検索」できない。あったはずなんだけど、買ったはずなんだけどといってもどうにもならない。
こうなると、ワードローブを「持っている」からといって、着たいと思ったときにすぐ着られるというわけではないことは、明白だ。速攻でアマゾンで注文してお急ぎ便で送ってもらったほうが速いかもしれないくらいだ。しかし、依然としてワードローブは、私たちにとって「重要」だ。私たちはワードローブという「記憶」から、着こなしを「引きだす」のだ。まずはワードローブがなければ選び、組み合わせるアイデアは浮かばない。
やれやれ。私がファッションについて「語る」なんて。いや、これ、ボキャブラリーの話なんですってば。
ヒビキさんは、うっかりすると忘れてしまうが世代が違うので「戦メリ」とは言わないのであります。戦場のメリークリスマスは傑作で、いい曲なんだそうです。
「戦場のメリークリスマスは邦楽だよねー」
「えっ? なにがどこが?」
ちなみにヒビキのいう「邦楽」というのはど邦楽、つまり長唄とか歌舞伎やお能の後ろでやってる音楽のことであります。
「だってあれ(レミレラレ)のところを三味線、ポンポンと鼓だと思って聴いてみー」とヒビキさん。
うーん。むずい。
「ところで、あれどういう映画なの?」とヒビキさん。
きたきた、映画のほとんどが映画音楽とすり替わっているヒビキさん。映画はたぶん断片的にしか見たことがないのであります。だけどそう言われてみると、大島渚には失礼ながら、音楽のほうが不朽のような。
「映画音楽が名作で、長く聴かれていて、映画のほうはそうでもないということは、やっぱりあるよね」
と母親はごちゃごちゃ。で、ついでに「Calling you」をひとふし。
「知らない。ま少し知ってるかも。で?」
「たとえば『バクダッドカフェ』なんか、ヒビキでなくとも音楽しか覚えてないし。けど、それでも音楽が記憶に残ってると、映画が再映されたりするんだよね」
ごく周辺的な情報だ。
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という話をしたのが日曜日のことで、明けて今朝、ふと湿った初秋のグレーの空を眺めながら、その空気を切り裂いて私にもその「ポン」が聴こえてきた。いや、想像力のなかで。……なるほど、確かに邦楽かもしれないのであります。レミレラレのところをさほど持続音でなく、弾(はじ)いていると考えれば、まさしく三味線、そのうたいはじめの息の合いかたも、まさしく邦楽。そこへポンと、湿った空気を切り裂けるのは、邦楽か仙場師匠のパーカッションをおいてはあるまい。