響けブログ

音楽コドモから「音楽コドナ」へちょっと進化。ドラムとバイオリンと小鼓を弾く、ヒビキの音楽遍歴。

「サーカスがやってきた」という古典(クラシック)。

2009-01-31 | コレクション
ニクーリンサーカス

バレエに「クラシック」と「ジャズ」(そうなのだ!モダン=ジャズと呼ぶのである)があるように、サーカスにもきっと「クラシック」とそうでないものがあるに違いない。音楽にもありますね、クラシック、ジャズ、そのほかはポピュラーとひとまとめになることもあるいろいろがある。

サーカスのクラシックがロシアのバレエなら、モダンはカナダはモントリオールの「シルク・ドゥ・ソレイユ」ということになるのだろうか。シルクは東京ディズニーリゾートに常設の劇場があって、そこで公演をしているという。たぶん広告の作り方でだと思うのだけれど、なんとなく「キャッツ」のような催し物だとずっと思っていて……それは間違いでした。

設立者のひとりというジル・サンクロワさんの話が「ほぼ日刊イトイ新聞」に載っています。中でも面白いのがこのページ↓

「ほぼ日刊イトイ新聞」2008-04-07

最初のパフォーマンスを終えて、
コスチュームをとったときに思いました。
「これが私の本当にやりたいことだ」と。

──「ほぼ日刊イトイ新聞」より

そしてこのページ↓

「ほぼ日刊イトイ新聞」2008-04-15

もともと私はバランス感覚がいいんです。
だから、最初から、怖くなかったんです。
怖くなければ、それはもうできるということです。

──「ほぼ日刊イトイ新聞」より

このジルさんの話はとても素晴らしいです。

というわけで最初から脱線してしまいましたが、私はシルク・ドゥ・ソレイユのほうは観ていないので、よくわかりません。動画などを見るぶんには、さほどはモダンにも見えないのも、バレエに似ていなくもないですが。……おそらくこれはクラシックイタチの趣味趣向の問題なんだと思います。(つづく)

[ロシア・ニクーリンサーカス観劇記]
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ロシア・ニクーリンサーカスを見た。

2009-01-30 | コレクション
東京ドームニクーリンサーカス

サーカスというのをwikiで調べると、日本にもいくつかのサーカス団があることを知る。木下大サーカス、キグレサーカス。そういえば、自分がコドモの頃にはそういったものが大々的に宣伝されていたものだ。(ほんと昭和って感じである)

これによく似た興業といえば、バレエであった気がする。バレエといえば、松山バレエ団(そう、なぜか「バレエ団」というのだ)みたいな。

そしてその「日本の」とつくものの上位に「本物の」とつく団体さんがあって、それは忌野清志郎の言うところの「外タレ」なのである。サーカスもバレエもそれはロシアからの訪問者であった。ボリショイ・バレエ。そしてボリショイ・サーカスである。

ところがこのたび初めて知ったのだが、ボリショイ・バレエがボリショイ劇場が有するバレエ団であるのと違って、ボリショイ・サーカスというのは、そういうサーカス団があるわけではなくて「ロシアのサーカス団が日本公演で用いる名称(wikiによる)」なのだそうだ。まあ今時それはどんなものだろうということで「ニクーリンサーカス」という当たり前な正式名称で公演をすることになったのだろうか。

ともかくそれは東京ドームシティの一角にある、JCBホールというところで行われるのだった。入口からしてなるほど、と思ったのだが、確かにこのホールはサーカスをやるにはぴったりの劇場だ。地下にあるというのがちょっとこわいけれども、そんなこと言ったら地下鉄だって地下だしねえ。しかしたぶん火が使えないとか、係員が多いとか、いろいろ管理上の適切な配慮があったように思う。

しかしまあ、こういった演し物に出かけていくと、隅から隅まで見てきてしまうのがクラシックイタチの悪い癖であります。でもね、最大の感想は簡単。

予想以上。

これにつきます。(つづく)

[ロシア・ニクーリンサーカス観劇記]
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18世紀に生まれた音楽を、コドモが弾くってこと。

2009-01-29 | バイオリン・レッスン
「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」
紀伊國屋書店


大バッハの生年は1685年である。大バッハはJ.S.バッハのことで、つまりバッハ家の中でも一番偉大な、バッハといえばこれ、というバッハであります。そのバッハの「鈴木バイオリン教本」第三巻の「ブーレ」をヒビキが只今バイオリン・レッスンでやっている次第。

当たり前なようだが、J-POPsをコドモがいいと思うのはさほど難しいことではなくて、バッハはいいとか、ブラームスが好きだとか、やはりブルックナーに限るとかいうコドモがいたらかなり珍しいはずだ。というのは、やっぱり現代の音楽は、彼らを対象に作られているからである。バッハはヒビキのために音楽を作ったか、といえば、そんな気も一瞬してしまうのだけれども、まあよくよく考えればとりたててヒビキのために作ったわけではないだろう。(当たり前か!)

これをヒビキが自分の音楽として弾くには、できれば「たくさん聴いたから、マネして弾けるようになった」よりも、何らかの音楽的な発見を通じて自分のものにしてもらいたいものである。つまりJ-POPsとは「違う」けれども、○○な音楽なんだ、というふうに。そうすることによって、すばらしいけれども白々しくない音楽になるんじゃないかなあ。現代人にも感動を与えるっていいますか。

(うーん、クラシックイタチこと私にはいまいちやっぱりつかめてないからなあ。だから○○になってしまうのだ)

で、そうするにはいったいどうすればいいのかというと、先生の指示をきいていると非常に物理的にというか、このように弾けばいい、こう弾いていると違うということを分析的に説明している。そのたびにクラシックイタチは「なんか違う」と思ってたことは「これこれ」という違いなのか! と知って結構ガクゼンとするのである。しかも実際にはたいへん細かな違いなんだけれども、もはや先生にそう指摘されると、「そうかあ! なんて違いなんだろう!」って思っちゃうのである。

不思議なことにヒビキも変音記号なんかは簡単に間違えていつまでも直らないくせに、そういう弾き方の指導はさっと身についているようである。

すると、今年の発表会あたりはもっとすばらしいバイオリンになるのかなあ、と親は例によって呑気。(自分ができないのをいいことに!)

※上記画像は、DVD「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」。バッハといえば、そんな映画を昔観たことを思い出して、リンクを貼ってみました。今売られているDVDでは「アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記」というタイトルになっているのだそうです。カラー作品で、チェンバロの映像をよく憶えているんだけどな。ところが! 白黒映画だそうです。(何を見てたんだか)

すばらしい演奏を弾く、弾けたからすばらしいんじゃなくて。

2009-01-28 | バイオリン・レッスン
後楽園ラクーアにて

前回はどうも流れの悪い話になっておりまして、恐縮至極。

どういうことが言いたかったのかといいますと、……ってまさにここんところがこんがらかっていたわけなのですが、まず最初に話しておかなければいけなかったのが、すばらしいバイオリンの演奏というものについて、だったんですね。

すばらしいバイオリンの演奏って、どういうのですか? というのが意外と難しい。以前「ズーラシアンブラス@文京シビック、すべての未就学児に音楽を。」にも書いたのだが、弦楽器というのは、「するっと演奏が始まると独自の世界をつくっていく。」ところがある。協奏曲などでソリストが賢明に弾いてるのが「すばらしい演奏」ってイメージがありませんか? でもよく考えると、もしあの勢いでレッスン室で弾いたら近所から苦情ものである。

「弦楽器ならではのすばらしい演奏」で、家でも聴けそうなものをイメージするために有効なのは、その名の通り「室内楽」の弦楽アンサンブルあたりじゃないだろうか。ほんとうはオーケストラの中のバイオリンという説明でいいわけなのだが、するとどうもソリストとバイオリンパートでどう違うのかというあたりで対立的な構図になってしまい、また話が別のところへ行ってしまいそうなのである。

弦楽アンサンブルは、ズーラシアンブラスの弦うさぎさんたちがそうだったように、ふっと呼吸を合わせて歌い始め、独自の世界を作っていく。ジャズうさぎ(これは夫のことです)には多少しらじらしいクラシックっぽさに聞こえるかもしれないが、クラシックではもう曲はできており、そのできてる作品を弾いているのだからしょうがないのだ。

この場合のそれぞれの演奏者の弾き方というのが、まさにすばらしいバイオリンの演奏だ。クラシックのプロがみんなできるこの弾き方を、ジュニアオーケストラのコドモたちは掴んでいるし、日本学生音楽コンクールの子供たちはまさに個性豊かに展開してみせるわけである。

ええと……お気づきのようにこれは「素晴らしいバイオリンの演奏とは何か?」といっても深遠な問いではなくて、目指すべきはこのエリアというざっくりしたお話でございます。

しかしそんなふうに、もうぜんぜん演奏の内容が違うんだということ、それをどうしたら実現できるのかということ、それを、原則的に「真似しない」やり方のロック小僧のドラマー・ヒビキがどうやってできるようになるのか?

ところが今年初めて付き添いで参加したバイオリンレッスン、どうやら、まさにこのことを巡って展開しているようなのである。(もう1回つづきます)

※画像は後楽園ラクーアにて。

ロックドラム小僧はいかに美しいバイオリンを奏でるようになるのか?

2009-01-27 | バイオリン・レッスン
ドラム道場

うーん。(上の画像は先々週の菅沼孝三ドラム道場での様子。)

先日は久しぶりに、ヒビキのファミリーバンド「ビッキーズ」の練習をスタジオを借りてやったのだけれども、新しい曲なんかあってもその場で叩いちゃうし、へたするとコーラスまで入れてくれるヒビキくん。うーん、クラシックイタチ(私のことです)なんぞはそのヒビキのドラムを聴く余裕もなく練習に臨んでいるわけだが、録音を聴いてみると、ヒビキなんぞは、おやっと思うほどよく曲をつかんでいるのであった。

これはこれで、「うーん」と悩ましいことではある。

昨日はバイオリンレッスンで、改めて聴くと、最近はそろそろ曲も難しいというかありありと曲想のある、大きな曲になってきている。

自分がコドモのころは妹がバイオリンレッスンをやっていたわけだが、そういったレッスンでのコドモと先生の演奏、それからレコードなどのプロの演奏家といったものを聴いている「だけ」では、これが案外わかりにくいことがある。というのも、ここ1、2年の間に、先生に教えていただいたこともあってジュニアオーケストラや、日本学生音楽コンクールの予選などの演奏を聴いたのだが、このようにコドモなのにプロへ向かっている、つまりその中間地点にいる演奏を聴くことで、そこにどのような廣さの空間があるのか、ということがよくわかるのだ。

これは意外なことのようだが、おそらくレッスンというものがそういう性質のものなのだと思う。先生はうまくて当たり前、プロはすばらしくて当たり前、生徒は生徒なりに弾けてればオッケーという大きな溝を、勝手に拵えて安閑としているのだ。そういうのはもう無意識に行って、耳がありのままに聴くことを自動的に妨げるのである。

そこで、あのヒビキでさえ、先生に言われなければ違いに気付かない、ということが起こるのだと思う。ただコドモのほうが「(先生のようには)できるわけない」と思っていたりして、大人よりもやや意識化されてはいる。

つい、話が長くなっていて恐縮なのだが、そこで問題は、プロの演奏というか、曲が持っているバイオリンに弾いて欲しいメロディというのは、もうなんか曲が始まって以来スイッチが入っちゃったような、ある世界を持った時間の流れそのものである。ドドソソララソというようなものではなく。──これがどうしたら弾けるようになるのだろうか? このことがクラシックイタチには、まさに自分にとっても未踏であるがゆえに、いよいよ難問に思えてきたのである。(ええい! つづかしてください)

寿司屋のBGM。

2009-01-26 | おんがく
sushi

ジャズうさぎこと、うちの夫は、えらくBGMにうるさい。どうして、またどういう経緯でそうなのか、あるいはそう思い込んでいるのかはわからないが、とにかくなんでもBGMが気に入らなければ機嫌が悪いだけでなく、実際に堪えられる時間も短い──長くて15分ぐらいだろうか。

気になる人ならわかると思うけど、実際、店のBGMというのは、ひどいのが多い。たとえば飲食店なら、清潔で料理もちゃんとしていて、おしゃれですらあるような店なのに、店に流れているのはユーセンのなつかしの歌謡曲だったりする。一流のシェフに聞いても、音楽というのは余計なものであるらしい。こういう場合には、店の雰囲気が大切というけれども、音はお客様の話し声が快く響く感じ、というあたりが理想になっていることが多い。

BGMといえば、ジャズうさぎが感服するのが、無印良品の初期の店内用音楽として制作されたヨーダこと細野晴臣氏の「花に水」である。確かに。

ジャズうさぎがBGMについてさしたる文句をいわない店、いやかなり気に入っている店といえば、STARBUCKS COFFEEなんかそうですねえ。

そこで寿司屋なのだが、昨日はめずらしく中野の(安めの)お寿司屋さんへ行ったわけですね。これまためずらしく「ビッキーズ」の練習の帰りであった。すると店のBGMが演歌……でもないんだが、なんつーんですか、昭和歌謡?! 

そしたらヒビキが途中から突然ぐったりして、お寿司が出てくるまで寝ると言って毛糸の帽子をアゴの下まですっぽり被ってしまった。

あれ、もしかして拒否だったのかも。

うっ、せなかが痛い、クラシックバレエのせいだろう。

2009-01-25 | コレクション
「よく応募してきたなと」
言われながら2009年も抽選入りして続けているクラシックバレエ。顔ぶれも若干変わって、一方若干慣れて素敵なコスチュームでレッスンを楽しむようになってきた方も出てきて、なかなか多彩な雰囲気である。

こういうことを続けるには──つい最近急に気付いたのだが──やはりコツがあって、というのはあまり気合いを入れて、ダカダカ上達しなきゃと“思わない”、というこの点である。まあこんなものと横ばう気持ち。

もっともクラシックイタチ(私のことです)は性格的にそういうのは無理なので、原則的にはやたらとがんばってしまうため、やはりかなりの筋肉痛というか故障というか、影響が出るわけである。

今回の「影響」の特徴は、約3日間に分散して、部位別に痛みが来ることだ。最初はふくらはぎ、つぎはふともも、さいごに背中、という具合である。

ああもう体がばらばらだあ、という気分は、この動画が冴えている。御一顧↓

Robotic Self Healing Chair
自立椅子

ポールマッカートニーの新譜、輸入盤なら1,440円。

2009-01-24 | 歌う
Electric Arguments
One Little Indian
amazonへ

ポール・マッカートニーの新譜といえば、「Free as a bird」以来の衝撃といおうか、このポールが「友達と作った」と夫の言うのが、新譜『Electric Arguments』でございます。ちなみにバンド名は「The Fireman」。輸入盤のほうが安いので、上にリンクを張っておきました。最近ウチではこれがよくかかっております。

1曲目の冒頭を聴くだけで、ため息がでます。
クラシックイタチに言えることは、今はそれが精いっぱい。

<訂正!>
2曲目なんだそうです。「いつも2曲目からかけてんだよ」と指摘あり。
家内コミュニケーション不足で、失礼いたしました。。。


楽器の上達は、やはりポンと起こる。

2009-01-23 | バイオリン・レッスン
分数バイオリン1/2

すっかり晴れた冬の夕べ、バイオリンのレッスンに行って、帰りにモスバーガーで食事して(きみたち、よくそれでお腹いっぱいになるねえ)帰ってきたヒビキ一行、「レッスンどうだった?」と聞くと、なかなかよかったそうである。

夫が言うには、レッスンへ行く前に家で練習するときにメトロノームを使わせて裏拍で弾かせてみたら、一発でヒビキがバッハのブーレを弾いたので、聴いていた自分が感動して泣いてしまったというのである。(泣くかふつう?)

ところでヒビキのバイオリンレッスン、現在の進捗状況は「鈴木バイオリン第三巻」1、2、3、4曲目が終わったぐらいである。例によって順番にやっていないので、まずはユーモレスクから、そしてバッハのメヌエットでー、という感じに勝手に進めているので、中はすっとばして最後のブーレを弾いているのである。

そこまで感動されてしまえば、ヒビキも毎日メトロノームを使わざるを得ない。

そういうわけで本当は指の形とか、姿勢、変音記号をちゃんと見てとかいったところを今はやってもらいたいのだが、裏拍のメトロノームなんかで練習している昨今なのである。

ただクラシックイタチも見ていてすごいなあ、と思ったのには、あれねえ、必死でリズムとりながらでないとやっぱり出来ないではないですか。それがヒビキの場合、もうまったくメトロノームなんかないかのように、するすると(“メロディ中心で”っていうかなあ)弾いていて、それでいて拍が合っているのだ。

それでも最初に拍に入るときはよいしょって感じで、なんとなく先日「大縄で入る時に転んじゃった」というあの、校庭で、なわを結んで大勢でやる大なわとびの、空に弧を描く軌跡が彷彿としてくるのでありました。


こちらはバイオリンケースに貼ってある年代物の(古いだけ!)シール

「レインボー喜寿 靉嘔AY-O 七十七歳」へ行った!

2009-01-22 | おんがく
レインボー喜寿

先日、フルクサス(変換しない!)で活躍していた靉嘔(あいおー、と読む)さんの版画作品を中心とした展覧会、「レインボー喜寿」へ行ってきました。会場は三鷹駅前にある「三鷹市美術ギャラリー」。展覧会では、絵の中に穴があって指を入れると音がする、というのを、ヒビキが楽しんでいました。

ヒビキはどうも展覧会などで、うっかりすると絵にさわるように見えることがあって、大人はちょっと吃驚する。ヒビキは小さい時からあまり破壊するような行為はないのだが、アートの場合はいけないと思っているのに、なんかすっと寄っていってしまうようなところがある。親にすると、その近さにちょっとギョッとすることがあるわけだ。まあやっぱり問題になるようなことをするわけじゃないんだけど。

今回も着物を着た奥様のような方がちょうど入館者の流れでよくそばで見ていたのだが、ヒビキが指を入れているので、かなり険しい顔になっていた。なんだかキビシイ雰囲気だが、まさかヒビキが自分でやったとも思えないので聞いたら、会場案内の学芸員の人が教えてくれたので、やってみたのだそうだ。

お着物の奥様もそのうち学芸員の人に声をかけられて、おそるおそる指を入れて感触を楽しんでいた。穴の入口にはゴムが貼ってあって、そのスリットの奥がいろいろな感触につくられているわけなのだが、音がでるやつの、その音がよくできていた。

みんなでほっとして、また流れにのって、出口まで送られてきたのであった。

まじに、音楽のDNA。

2009-01-21 | おんがく
ドラム練習

そう言えば金子鉄心さんのお兄さんもリコーダー吹きである(NHKのリコーダー番組に出演していた「かねこさん」という講師をご記憶の方も多いことでしょう)。いやそればかりか、お父さんは尺八吹きと聞いている。

親子で音楽家といえば、ジョン・レノンの息子はジュリアンとショーン・レノン、バッハは大作曲家家族というあたりまでは知っていたが、チャーリー・パーカーのお父さんはボードヴィルのピアノ弾き、ポール・マッカートニーの父親はトランペット吹き、プリンスの父親はジャズトリオのバンマスなんだそうである。

そんな記事が載っていたのはこちら。
Musical Ability Seems to Be 50 Percent Genetic
http://discovermagazine.com/2009/jan/052


DISCOVER Science, Technology, and The Future というウェブサイトで2008年の年間52位に選ばれた記事なんだそうだ。

記事の内容は、音楽の能力ってのは遺伝的な要因が大きいんじゃないのか? という直感を科学的に調べたというフィンランドのリサーチ結果。フィンランドの15の家族・のべ224人を調べたところ、結論としては、なんと50%遺伝的なんだそうである。

ふうん、音楽の能力なんてさ、どうやって調べるのよ。

と、響けブログをお読みのみなさんなら思うであろう。(というか、私は思う)

The subjects were given standard tests of musical aptitude, such as the ability to discern differences in the pitch or duration of two tones.

やれやれ、やっぱりさ、音楽のアビリティを測る基準って、案外低く見られているんだなあ、って思うんですよね。どうも非常に初等教育的な、基礎能力的なものを測ってるみたいじゃないですか。(詳しく調べたわけではありませんが)

だって昨今さすがに体力テストの成績がいいからオリンピック選手の家系とか言う話ではまかり通らないですよね。以前も「ロボットのまじ情報処理、インプロビゼーションはいかが?」で書いたのだけれど、音楽がわかって、リサーチの方法もわかる、って人はほんとに稀なんだろうなあ。

あ、そうだ、クリヤ・マコトさん! たぶん彼がそうですよ。

雨女(あめおんな)って本当ですか?

2009-01-20 | バイオリン・レッスン


昨朝目が覚めると、6時ごろにあがったという雨が、まだつややかに路面を濡らして、空はどんよりと雲に覆われていた。

ああ今日は、久しぶりのバイオリンレッスンだ。と私は思った。

しばらくバイオリン・レッスンのことをお伝えしていなかったのだが、それもそのはず、もう1カ月近くも休んでいたからなのである。

なぜかというと、たまたまその日に熱がでる、こないだは例のインフルエンザ、というわけで、年末年始のスケジュールが開いた上に、2008年最後、2009年最初のレッスンを飛ばしてしまったのだ。

ただ、その間、おもしろいこともあった。

ヒビキがなんとなく、明かに行き詰まったのである。

最近のコドモは、スパルタに育てられないというか、あまり無理を言われないと見えて(たとえば校庭をうさぎとびで10周!とかさ、昔はありましたが(どこまで昔なのあなた、と言われそうですが)それに今はトラックだって400mなんかとてもないし)、ちょっとでも難しい、ちょっとでもtoo much!と思うと、すぐに「できるわけない」とか「ム・リ・だ・よー」というように反撥ではなくてあっさりやめちゃうのである。そのようなこともあって、ドラムもバイオリンも個人レッスンでかなりマイペースに続けてきたのだが、ドラムのほうは最近ややイケイケへ、というふうに状況に変化が兆している。

で、バイオリンのほうは休みの間、どうしていたかというと、一通り弾けるようになってしまうと、手持ちぶさたになり、そうするとしかたないから普段はやらない間違っている音とか、上げ弓下げ弓の間違いとか、フォルテのところ、とかいうように細かいところを私が注意してみる。それも一通り終わってしまうので、また手持ちぶさたになり、でもって新しい曲をやったら?ということで新しい譜面をみてもらう……

いや、それでもね、進んでいるようで、維持しているだけだったんですよね。

それが私にわかるのは、ヒビキがいかにも「で、なにすればいいの?」となることでなのだ。

バイオリンの先生にも「バイオリンを忘れてなくてよかった」と言われたそうである。そうそう、まさにそんな感じ。

マイペースとは言っても、マイセルフでは進んでいけない。やっぱりレッスンの中で何にチャレンジすればいいかがいちいち見つけられないと、伸びていかないんだなあと実感しました。コドモの場合は、特にそうである。

ところでいつも雨になるバイオリンレッスン。昨日はなんと夫の付き添いだったためか、昼頃から見事に晴れましたね。「科学と広告のブログ」なんてやってるのになんですが、クラシックイタチ=雨女説、このバイオリンレッスンに関してはかなりの確率なんですよ、実際。

ドラム道まっしぐら、インフルエンザ特別休暇。

2009-01-19 | ドラム・パーカッション
ドラム練習用パッド

先々週ははじめて、サタデー恒例ドラムレッスンと菅沼孝三氏のドラム道場が重なって、週に2回もドラムレッスンという週になった。

サタデーレッスンで今取り組んでいるのは「Born to love you」というフレディー・マーキュリーの曲で、Queenの最後のアルバム(?)の1曲目に入っている。これを例によって家で何千回と聴いているわけである。

しかしサタデーレッスンのプログラムは最近やや変化している。これまではテキストに載っている練習曲と演奏を楽しむいわば演奏曲をやっていた。練習曲はそれぞれポイントがあって、シンコペーションとか、8ビートとか、自分のフィルを入れるとか、そういう課題を達成するように作られたカリキュラムだ。

ところが最近は、もっとベーシックだけれどもより技術的なこと、たとえば2つ打ちをスピードを変えて、速く→遅く、遅く→速く、というように叩くとか、5つ打ちというある手順でシンバルとスネアを叩くものとか、スネアを中心に技術向上のあの手この手といったメソッドに取り組んでいるわけである。そのあたりは、テキストと指導を知り尽くしている先生が、時宜と考えて提案してくださっているのであろう。

なるほどたしかに、以前のヒビキだったらそういうのはあんまり好きじゃないし、どういう意味を持つのかよくわからなかったかもしれない。大事かもしれないけど、やらなくたっていいじゃん、って感じに思っただろう。

ところがである。先週はヒビキ、インフルエンザに罹ってしまって、とはいってもなぜか非常に軽い罹り具合で、一晩のほんの数時間高熱にうなされただけで、翌朝には恢復してしまった。したがって登校してはいけない期間の48時間分、つまり2日間は、まるまる室内休暇となってしまったのである。

で、その間、やってましたよ、ドラムの練習を。しかも石川直さんのCDをかけて。いろんな体験の流れがひとつに縒り合わさって、練習ってのはいいね、とわかってきたのに違いない。そうなのだよ。練習っていいんですよ。

さらにこの週末には、夫に「スタジオ予約して」と指示してましたが。

2009クラシックバレエ・レッスン始まる。

2009-01-18 | コレクション


12月の上旬に2008年のレッスンが終わり、ついこの間、とうとう今年のクラシックバレエ・レッスンが再開された。

言うまでもないことだが、「ブランクがだめなんですよ」と先生が懸念した通りである。「太った」「何もやらなかった!」とみんな口々にしながら、開脚の前屈をしながらあと3分といった開始時間を待つ。

それでも先生は「いままでやってたみなさん」と、数名の新しい受講者を厳格に「区別」するので、ごく若干「古い人」であるクラシックイタチ(私です)にゃ、居心地悪いったらありゃしない。実はもう始まって5分も経たないうちに、もうろうとしてくるしまつ。

でもって思ったのですがね、みなさん、そうは言ってもさすがだなと。クラシックバレエというのは身体性との戦いなわけですよ(!)。自分には出来ない形、曲がらない角度、体のあるパーツが別のパーツをリフトする、そういうことを出来るようにするわけですね。もちろん誰一人として、ぜんぜん出来ないのだが、そういう正しく客観的な意味での到達度というのは度外視して考えると、それぞれが自分の潜在的な能力を引きだして、眠っていたリソースを解放する道を探って、というふうに練習しているんです。今回継続した方というのは、みんなそういう心構えでやっているように思いました。

ところが私は、最もからだがやわらかいと言われる赤ちゃん時代を含めて、そのような「潜在能力」そのものを欠いちゃってる。進化論的にまずいのではないかというくらいの欠落を抱えているわけです(消される運命の突然変異!?)。だからそういう制限を破るということによってしか、可能性が拓かれないわけですよ。

ひどい言い訳にきこえるとは思いますがね。

さあ、そこでさっそく教訓であり、問題解決です。

「夢は叶う」「やればできる」の奥義です。

つまりね、「夢は敵う」おう! みたいにして闘ってもなかなか練習というのはキビシイ。音楽なんかは特にそう。自分の中にあろうがなかろうが、「あることにする」。そのリソースを使ってできるほうへ進む。実際にリソースがなければ、0から作るわけだから時間はかかりますがね。それでも「あることにする」気持ちの問題は大きいです。それに、そうしないと(違う土俵に立ってしまうから、結果的に、自ら)仲間に入れてもらえないですし。

反面教師の必要性、なんてことが言われますが。

こういうふうに1つの教室があったら、下から2、3番というような人のメンタリティの持ち方についても、広く対策が普及するといいですよね。クラシックイタチ、こうみえて逆境に強いのであります(!)。

イケアの「Billy(ビリー)」の組み立てで、最も大切なこと。

2009-01-17 | コレクション
イケアの家具組み立て、印つけ

前回の椅子「sixten」の組み立てでは、今どこをどう組み立てているのかを理解するというのが最大のポイントだったかと思うのだが、今回の組み立てはとてもシンプルなのでそういうギモンはほとんど浮かばない。しかし1箇所だけ想像力を要するものがあって、それがえんぴつで印をつけるというところだ。

書棚にはたいがい、一番上と一番下、そして中央の3箇所に、固定の棚板がある。この棚板をフィックスしてから、中央の棚板の位置に、縦の板の側に印をつけておくというプロセスがあるのだが、これはなぜかというと、背板を入れてからクギを打つときにアタリとなるからなのである。アタリがないとどこへクギを打ったら棚板へ刺さるのか、見当がつかないからなのだ。

こういうことはきっと大工さんなら簡単に予想できるのだろうが、シロウトには言われなければさっぱり必要性がわからないのであった。

一方、3つとも組み立ててみて、作業を振り返って、実は最も難易度が高いと思われたのはこれ↓
イケアの家具組み立て、ネジ

このネジのネジ入れるのが、なかなか難しい。3つ目も終わりごろになってようやくタイミングよくネジ入れられるようになった。

私ことクラシックイタチが思うには、こういう組み立てで大事なことは、大体できていればいいと思わずに、ぴしっとやろうと思うことではないでしょうか。シロウトのやること、どうせバリエーション豊かに失敗するわけですよ。だからその失敗をドンマイの範囲に入れるためには、ぴしっと始めることが大切なのかなと。