響けブログ

音楽コドモから「音楽コドナ」へちょっと進化。ドラムとバイオリンと小鼓を弾く、ヒビキの音楽遍歴。

クラシックイタチ、ヒップホップを踊る。

2008-04-30 | おんがく
先日ジムで、顔見知りの人に誘われて、ヒップホップのダンス・レッスンに参加した。イタチが突然参加しても大事なしというようなクラスだから、もちろん高度なことはやらないのである。だがそれにしても、なんの核心もイメージできずに終わってしまった小一時間だったな。

その少ない体験でも、ヒップホップというのは、背筋の強靱さを見せつけるようなダンスだという印象を持った。背筋の高い部分が、全身をコントロールしなければならない。ところが、そういうダンスを引き起こしてくれるビートそのものが、前頭葉を引っかき回しても、私の中に見つからないのである。

こりゃ、だめだ。クラシックイタチ、ほうほうの体で引き揚げましたとさ。

調律のはなし、とクラシックイタチは話しはじめる。

2008-04-29 | ピアノ
調律となると、私のはなしは尽きない。たとえば調律師の腕は、整体師の腕にも似ている。いや、世のチューンナップというものすべてが、そもそもそういうものなのかもしれない。元来不完全なものを、どこまで整えられるか。いや、不完全かどうかを問うのが目的なのではないから、つまり──「最適化」ということになるだろうか。

ピアノの弦は1音につき3本または2本(音の高さによる)で、ひとつのキーを叩くとその3本が一度に鳴るようになっている。ちなみに、このうち弦を減らして鳴らすのが、グランドピアノのシフトペダル(左にある)である。

この3つの響きが合わなくてはいけなくて、その音程が合わなくてはいけなくて、そういうものが88鍵もあるのである。ひとつのキーに3分かけても4時間以上かかる。このように考えると、調律というのはほぼ不可能であるように思えてくる。

ギターの弦が6本だから、だいたい15倍だと思うかもしれないが、ひとつのキーで2~3本の弦だからその2~3倍である。そのうえピアノは壮大な平均律である。

というそのうえに、新しいピアノであれば弦が伸びやすく、古い弦であればギギギギという感じで硬く、調律していない時間が長ければその狂った状態にピアノが落ち着いてしまっており、という具合にいろいろと諸問題がある。

このように考えていくと、調律というものは、ひとつひとつの音の高さを合わせていくという作業では「なく」、別の考え方をしないととうてい完成しないものだということがうっすらわかってくる。つまり最も大事なことは、このピアノの音、響きをどう「まとめるか」ということにかかっているのだろうと思われる。

従っておそらく調律師の作業というのは──実際、調律師の人に訊いたこともあるのだが──まずこのピアノでどれくらい調整できるか、なるべく高くて可能なゴールをイメージする。次にそれに要する時間を見積もる。そして、あとはやるだけだ。

信頼できる調律師は、このゴールのイメージが、まさに玉を磨くような、古いピアノの潜在的な可能性を引き出すような見事な手際なのだと思う。

グランドのシフトペダル(アップライトの左ペダルとは別ものです)について動画付きで解説しているヤマハのページ
http://www.yamaha.co.jp/product/pi/grand_piano/index.html
音量だけでなく、打弦の位置をずらすことで音色も微妙に変化させられる。

クラシックイタチ、エプタザールのベーゼンドルファーを弾く。

2008-04-28 | バイオリン・レッスン
発表会会場である狛江エプタザールの魅力のひとつは、べーゼンドルファーのグランドである。ベーゼンドルファーといえばピアノの老舗で、ちなみに調律するにはいったい誰に頼めばいいのだろう、とふと思ったら、東京・中野にショールームがあるようだ。

どんなところへ行っても、ピアノを実際に弾いてみれば、調律にはたいがい不満があるものだ。大ホールのピアノならともかく、エプタザールのようにさほどフル稼動であるようにも思えないコンサートグランドが、いったいどのぐらいの頻度で調律されているのか興味深いところでもある。

しかしだ。なぜ「いじわるイタチ」のように、私は調律などにこだわっているのだろう? よくよく考えてみると、私はもちろんピアノが好きなわけだが、もしかしたらそれ以上に、調律そのものが好きなのかも知れない。──と、実は今思い当たったのだけれど。

ピアノっていうのは(などというとまるで「おやじイタチ」だが)、あの四角いキーが「揃いました!」(スロットマシンじゃないよ!)とばかりに並んでいるのが、楽器としては大きな特長と言えるだろう。弦楽器にしても管楽器にしても、ふつうは音程というのは自分で調節して弾くのである。したがってその自分で調節できない「揃いました!」が揃ってないことにはお話にならないのは、当然である。

ところが世の中はそう理くつ通りにはいかないのが、またまた自然のなりゆきであるからして、世の中のピアノはざっと全部狂っている。昨年、イベントで行ったヤマハ銀座店ホールのコンサートグランドは驚くべき精度で調律されていたが、「すばらしく調律されているピアノ」など、その1台くらいしか思いつけないほどだ。

ちなみに自分のピアノを目の前で調律してもらっても、それがやっと仕上がって、ありがたくちょろちょろ弾いている間にあっという間に狂ってしまうように思う。それは要するにピアノの状態がそもそもさほどよくないからであるし、とはいっても調律前とは雲泥の差であって、文句を言えた筋合いではないのはもちろんである。

ついでにライブハウスへ行って、本番前に調律師がやってきて、ざっと調律して帰るのを目撃したことがあるが、それが到底、調律がしあがっているようには聞こえなかったという経験もある。なんというか音階に歪みのようなものがあって、それが最後までなくならないままだったのだ。

バイオリンで参加のエプタザール。

2008-04-27 | バイオリン・レッスン
ヒビキはドラムも習っているのだが、ドラムの先生が毎年狛江にあるエプタザールで、ピアノ、バイオリン、フルートの先生たちとの合同発表会を企画しており、今年はドラムだけでなくバイオリンでも参加しては、と声をかけてくださった。

発表会は夏だから、鈴木バイオリン教本第2巻の中から何か弾けばいいやと思っていたら、前回のバイオリンレッスンで2曲ともあがりになってしまい、突然残りあと3曲になってしまっていることに気がついた。

そもそも鈴木バイオリン教本第1巻がとても速く終わったので、第2巻もそういうもんだと思っていたら、ずいぶん長い間やっているような気がしていたわけなのだけれども、得てして、それにも慣れてしまって、今度はいつまでも第2巻をやっているのが当然のような心得にいつの間にかなっていたのである。

残りの1曲も順調で、ヒビキは自信満々。
「これも終わりそうだな」
などと言っている。なんだか微妙なタイミングだ。

エプタザールの発表会で何を弾こうか考える

2008-04-26 | バイオリン・レッスン


ひさびさ、クラシックイタチである。クラシックイタチというのは、ほかでもない、私のことなのだが、ではなぜわざわざクラシックイタチだなどと言っているのかというと、私がかつてピアノを習っていたコドモだったからであり、妹はバイオリンを習っていて発表会にはよく伴奏を弾いたからであり、というわけで私のなかで音楽というものが、かなりの部分、クラシックなものだからだ。

と、それではイタチの説明になってない。イタチのわけは、つまり、私のようにクラシックなおいたちの者と、夫のように伴奏といえばコード、旋律といえばメロと、いちいち呼び名も話も食い違うロックバンド育ちとは、要するにお互い思っている「音楽」が別ものなのだから、どこまでいってもいたちごっこではないか(それにそういうのって、きっとよくあることなのだ)──だとしたら「音楽」について語ろうなどと思うのはやめて、クラシックな「イタチ」であることについて考えたほうが少しはましなんじゃないだろうか。というわけで、クラシックイタチ(としての私)がたびたびこの「響けブログ」に出てくることになったのである。

さて、現在バイオリンを習っているのは、音楽コドモのヒビキである。

ふりかえると、ヒビキは鈴木バイオリン教本第2巻をずいぶん長い間やっているような気がする。

夏には恒例の狛江のエプタザールでの発表会があるので、そろそろ何を弾こうか決めていかないとね、ということになる。

「音楽」にはうるさい夫が、井上陽水の「少年時代」はどうだろうか、と言う。

「手びねり」でポケモンを焼くの巻。

2008-04-25 | コレクション
「量子ビット」の制作などと言うと、まったく間違いということになるのだけれども、要するに「量子ビット」というものを説明するのに都合のよろしい模型を作ろうということになっていろいろな画材を物色中に、「手びねり」という家庭用オーブンで焼ける「やきものキット」を、ほんの物心というか、うっかり買ってしまった。

で、買ってしまってから、こいつを私ひとりでせっせと作ったりするのはどこか健康的でないような気がして、ヒビキに声をかけ、夫に声をかけて、つまりは家族のレクリエーションのようなことでいかがだろうか、ということにしたのが先週のことである。

作って、それが乾くのに1週間かかる。そこで今日あたり焼いてみましょうということになったのがこないだの日曜日である。

「何作るの?」と聞きながら、きょろきょろしている夫を尻目に、私とヒビキはめいめい勝手に作業を進め……というより、私はあんまり他のことは見えていなかったので、ヒビキが作っていたのがポケモンのフィギュアで、3つを重ねてタワーになるような構成だったのだ、というのは、焼き上がってから知ったのだった。

というわけで記念撮影。


「手びねり」はけっこう楽しいですよ。ポケモン3体。バックの絵もヒビキが描いたもの。




焼き上がれば耐水性ありとのことですが、なにぶんシロウトの作るものですので、植木鉢の受け皿とか箸置きなんかがおすすめです。あとあまりにまじで恐縮ですが楊枝入れとか輪ゴム入れとか、玄関の鍵置きとか、あまり売っていないが、自分ならこういうものが使いやすい形というのを考えるのも楽しいかもしれないです。

ちなみに、とても参考になるサイトです↓
「釉薬について」

サラ・ジーとモーニングサービス。

2008-04-24 | コレクション
サラさんは、小学生ぐらいのコドモがいて、コドモを見ていると発見があると言っていたそうだ。制作に要した期間はなんと3週間、スタッフ3名を連れ、アメリカからたくさんの物品を運び込んで制作したという。おこわ弁当と日本茶がお好みだったとのことで、その空き箱が作品に採り入れられているので、行かれる方はぜひ見てほしい。

3週間と聞いて、最初は私もなんて長いと思ったのだが、作風はたいへんに緻密だ。カタログに載っている輝かしい作品歴を見て、サラさんについて、なぜかレンブラントに心酔する画学生というイメージを私は持ったのだけれど、もちろんまったく見当違いということも十分あり得る。だがたとえば階段で9階へのぼると8階の作品が展望できるしかけになっているのだが、サラさんたちが何度もここへあがってきては、作品を検証しただろうことは、なんだか実にありありと彷彿とされもしたのである。

アメリカから持ってきたものというのはだいたい画材やDIYのデパートのようなところで売っているものと思ってもらえばいい。作品に使われているジャンボクリップとか、木材、カラー見本、ひご、画材、ガラス板、本や紙の類、糸や毛糸、ものさしとかそういったものがあたると思われる。そのほか日本でもアメリカでも売っていそうな椅子やコップなどの日用品や延長コード、スタンド(電灯)、扇風機など。

この品揃えのおそるべき手際のよさ、ついでに、搬送性のよさ。そしておこわ弁当など、3週間の滞在経験を組み入れていく的確さ(有楽町の無印良品もきっと訪れたことだろう)。収納スペースなどのドアも開放して、中に制作途中の写真のプリントを積んでおいたり、レシートが束ねてあったり。舞台裏の闇はなく、制作のプロセスもろともガラス張りの部屋の光に満ちあふれている。ハプニングさえ文法化されているかのようだ。そして微細なゆらぎから、9階の天井に届く巨大なタワーのてっぺんまで視線を誘導していく、そのびくともしない手腕。

天気や時刻によって刻々と表情が変わる、とエルメスのスタッフは言う。「早朝がいいんです。その時間にわざわざいらっしゃる方もいるんですよ」

[ サラ・ジー展へ行ってきました。]
| 1 虫の知らせで | 2 エルメス | 3 モーニングサービス | 

サラ・ジー、エルメス、銀座。

2008-04-23 | コレクション


ふつうの小学生を連れてエルメス銀座店に入るというのは、どうも居心地がよくないだろうとは思ったが、それだけ虫が知らせるのだから、遠慮している場合ではない。いや、そもそも、ちょっと高い敷居をまたぐということを、もっときちんとやるべきなのだろう。もちろん「ちょっと」ぐらいのところについてだけれども。ともあれ、地下道からの長いエスカレータの間に、むしろ多少の意地悪なら楽しめそうな心境に、私はなっていった。

一方、はじめっから楽しもうという気のヒビキは、エスカレータもちょっと違う雰囲気で感じがいい、としきりと褒めはじめる。

階上につくと、ドアマンといってもかなり年配の男性が、展覧会客のために案内をしてくれた。

会場は8階で、入口でカタログをもらった。サラ・ジーさんというのは1969年生まれ、ニューヨーク在住のアーティストだとそのカタログには書いてある。

ヒビキはしゃがみこんでひとつひとつをよく見たり、質問したりしている。しかし、どうもコドモ連れということで、自分が落ち着かない。だが荷物を預かってもらったこともあって、結局1時間近くも滞店してしまった。

店を出てもヒビキは終始ごきげんで、「おもしろかった」とさらりと言った。そして「あんまりゴミじゃなかったね」。

そう、インスタレーションに使われているものは、前評判のイメージほど廃棄物じゃなかったし、もちろんエコでもなかったのである。(続きます)

[ サラ・ジー展へ行ってきました。]
| 1 虫の知らせで | 2 エルメス | 3 モーニングサービス | 

虫の知らせで、サラ・ジー展へ。

2008-04-22 | コレクション
新聞をよく読んでいる夫が、朝日新聞に載っていたという「サラ・ジー展」@エルメス銀座店へ行こうという。作品はペットボトルなどの廃品を使ったインスタレーションのようで、通っている原朋直氏のジャズ・トランペット・レッスンが新橋だから、レッスンのついでに回ればいいし、という。それなら私もその展覧会について新聞に載っていた1枚の、あいまいにクローズアップな写真を、たまたま憶えていた。

ところが出かけようという当日になってみると、あいにくの雨で、まず夫が時間が合わずに行けないことになった。私とヒビキはなんとか銀座まで来て地下道へ入ったのだが、歩き疲れてもおり、方向感覚もあいまいだったので、丸ノ内線の改札があったらさっさと乗って帰ろうと私は思った。他人から誘われたコンサートや展覧会というものはしょせんそういうことになるのである。

と、ヒビキが突然言う。
「サラ・ジー展へ行くんじゃなかったの?」
なぜヒビキは、サラ・ジーという固有名詞をこんなにすらすら言うのだろう? しかも、驚いた私が立ち止まると、そこはたまたま、エルメスのガラスの楼閣の真下だったのである。

[ サラ・ジー展へ行ってきました。]
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土曜日と日曜日の宿題は、たくさんあそぶこと。

2008-04-21 | コレクション
4月になって学年が改まり、ヒビキのクラスにも新しい担任の先生がやってきた。新しい先生になって驚いたことと言えば
「金曜日は宿題がないんだよ」
とヒビキが声をかがやかせて言う。「声をかがやかせて」というのは、なんかそう言うだに、まったく聞いてるこっちまで、新しい驚きに照らされてしまいそうだからである。

新しい先生は、土曜と日曜はたくさんあそんだり、のんびりしたり、ごろごろしたりするのが宿題です、と言ったのだそうだ。「って言うんだよ」とヒビキは、また別の日に、その話の続きを教えてくれた。そのときもまた、声をかがやかせて。

さるの受難。

2008-04-20 | コレクション
先週病院へ行ったら、小児科の待合室にあるエメラルド色のソファに、さるの顔がふたつ並んでいた。



ほどなく母親とコドモ──1歳半ぐらいだろうか──がやってきて、そのさるの顔を見つけたのだ。コドモはたいそうそのさるをかわいがったので、母親はやさしいねえ、としきりにほめた。それを見ていた私もその母親もそこまではよかったのだが、看護婦さんがやってきて診察室へ移動することになり、すると突然、コドモが言ったのだ。
「これもらっていくよ」

クラシックイタチ、音楽ジャンルについて考える。

2008-04-14 | ドラム・パーカッション
そういえば、ヒビキのやつ、最近セリフが好調だ。
日曜のおひるごはん。学校で演る音楽の話から。

「コドモの歌ってさ、ジャズなのか、ポップスなのか、ロックなのか、ハードロックなのか、わっかんない。何なんだよね?」

ごもっともです、とクラシックイタチ(私です)は引き下がったのだが、夫はたいへん真面目に答えていた。

「コドモ向けの音楽というのはそうだよね。でもコドモのための音楽でもすばらしいものはある。たとえば「ぼくはくま」とかさ。……」

それを聴いていて、自分の場合、実はジャズなのかポップスなのかロックなのかハードロックなのかについて、それほど知っていないのではないか、と思い始めた。一方、ヒビキにしてみればリズムのキモがないように聴こえるのかもしれない。

ま、そういうことで、と最近ウチブームのスティングを聴くことになる。夫がイントロで「まだドラム入ってないんだよ」と言うとヒビキ、一呼吸おいてから「入ってるよ」とにやにやしながら叩くフリ。夫があわてて「あっ」というのには、実はハイハットが小さく入っているのだった。そのあとでどかーんとドラムが入ってくるのだが、その場所はヒビキ、もちろんずばーんと振り抜いて。


ところで、サタデー恒例のドラムレッスン、先週のお題はクラッシュ・ミュートでした。こんな雰囲気で↓



調子が悪いときは深呼吸。

2008-04-13 | YouTube
最近めっきり「気になるアーティストは?」って、訊かれなくなったのはどうしてだろう。いや、どこか別の、たとえば専門学校の周辺であるとか、私がとうてい行きそうもない界隈では、今でも健在な質問なのかもしれない。

というわけで、宇多田ヒカルの新曲をYoutubeで。
Fight the blues

なつかしい歌謡曲のような、といって、「調子の悪いときは深呼吸」なんてひとごとではない。クラシックイタチ(私です)は、矢野顕子と宇多田ヒカルの新曲には涙することが多い。

Youtubeは他にも宇多田ヒカルさんのインタビューなども面白い。25歳としてアーティスト活動を振り返るもの、それから20歳を記念した音源もあった。20歳の誕生日を迎えたというひっきーは、こう言っている。

井上陽水さんの「少年時代」をいこうと思います。
20歳になったんだけど、「少年時代」がいいかなと思ったんだよ
説明しにくいけど。

宇多田ヒカル 少年時代

これを聴いたというだけのひっきー効果で、私はなんだか急に声が出るようになっていたらしく、黙って轟音に絶えていたヒビキ
「ママけっこう高い声出るじゃん」

やれやれ。

ところで、ひっきーの「光」のクリップをキャプチャして壁紙のセンターに張ったら、すてきなマックになった。

クラシックイタチ、のけぞる。

2008-04-11 | ジャズ
ジャズミュージシャンたちのことをキャッツと呼ぶそうである。そう、あの「ハナ肇とクレイジー・キャッツ」のキャッツだ。

「4人のアンサンブルなら4人が、すごいスピードでコーナーに入り、そのまま速度を変えずに急カーブを曲がっていくんです」
──「ジャズ・トランペッター原朋直氏の未完の語録」より

日本のトップジャズトランペッターのひとりであり、ニューヨークでのレコーディング活動も多い原朋直氏の、アンサンブルの極意の一端が伝わる語録だ。ところでクラシックイタチには、アンサンブルと聞くと、どうもイコール「室内楽」となってしまって具合が悪いし、いや「合奏」でしょうなどと指摘されてもさらにまずいのだが、結論から言うと、原朋直氏の言うアンサンブルこそがアンサンブルなのである。

すごいスピードで、速度を変えずに、みんな一緒にカーブを曲がっていくこと。

そのような演奏の具体例として、これはアドリブではないのだけれど、StingのBring on the nightが、最近家ではしょっちゅうかかっている。いつにも増して出色の、いまは亡きケニー・カークランド。ニューヨークの超一流ジャズ・ミュージシャンをバックに迎えたスティングのソロアルバム。まさに「すごいスピードで」全員が軽々と疾走していく。クラシックイタチならずとも、いやほんと、のけぞります。

すごいスピードで──羅風「流星」より
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すごいスピードで、いろは坂を

2008-04-10 | ジャズ
『EARTH』という映画が話題になったときに痛感したのだけれど、オーロラでも夕焼けでも、非常に鮮やかな瞬間はほんとうはひどく短いものだ。彩度だけについて言えば、自然というのはふだん、ほとんど茶色だとか濁った緑色のようなどっちつかずの色彩であるほうがずっと多いわけである。そこで、自然の鮮やかな瞬間をとらえようというところにカメラの使い道のひとつがあっても不思議はない。たとえばアンセル・アダムスが撮影したヨセミテの風景。それはモノクロームの世界なのだが、大きな自然の豊かな色彩が封じ込められていると感じられなくはないだろうか。彩度が高い自然というのは、むしろ画像処理が自在にできるようになってから目にする機会がぐっと増えた光景なのではないかと、私は『EARTH』に感じたのである。

一方『CARS』という映画に、2台の車がじゃれあいながらくねる坂道を疾走するシーンがあるのだが、これもアニメーションでなければ見られないシーンに違いない。実写であれば、カーブにかかればひたと路面に張り付くようにスローダウンするだろう。だからこそ、こちらもそのぎりぎりの危なさを感じないわけにはいかない。速いスピードを維持したまま、テンポを合わせて複数の車がくねる坂道を疾走していくシーンは、だからこそ“ありえないほど”官能的であるのに違いない。

曲がりくねった坂といえば、私にとってはなんといってもなじみ深いのが箱根の「いろは坂」なので、どうしてもイメージはいろは坂になる。いろは坂とくれば、紅葉の季節などが都合がよい。唐紅に水括るとは、とばかりに自然の絢爛が迫り、その蒸すような鮮やかさの眼下を、風とばかりにキャッツが疾走していく。

キャッツ?

(つづく)

すごいスピードで──羅風「流星」より
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