今日の一枚

 小さな幸せを
見つける名人になりたい

山の名前

2008-03-11 19:45:47 | 写真日記
 仕事場から見える山は、今冬は雪をかぶって、
とても美しい時が多かった。
我が家から見える山と同じなのです。
我が家から何枚も写真におさめたけれど、名前が分からない
写真は遠くからのものばかり撮っている。
自分の撮った写真くらいは、名前を知っておきたいと思うようになった。
私って、名前を覚えることがほとんどない
名前を覚えるのが苦手なのだけど、これは物とかだけではなく
人の名前も同様である。

で、仕事場から見える山を指差し仲間に聞いて見ることにした。
ネットでも調べて見たけれど、遠くからの山の写真は見つけることができず
山の名前を見つけることができなかった。
仕事仲間はナビを使って、調べてくれました。
車を山に向け、ナビを広角検索にして、名前をゲット。
目からうろこのナビの使い方
この手で、他の山の名前をゲットしようと思う。

これからは、名前を覚えるようにしようと思う。
先日買ってきた花苗も、名前を忘れないように手帳に書き込んだ。
聞かれても大丈夫

本日の写真は石鎚山の日暮れです。
夕日の茜色が、ほんのり山を照らしています。

『子どもの自然に学ぶ』斉藤 智子

2008-03-11 19:25:13 | 愛媛新聞より
 『子どもの自然に学ぶ』斉藤 智子
子どもを見ていると、自然というものがよく分かる。
同時に、私たち大人が、どれほど不自然に暮らしているかと
いうことが見えてくる。
 もっともこの場合の不自然という言葉ではなく、文化的と言い換える方が
いいかもしれない。文化は自然の対義語の一つであり、当然のことながら
不自然とよく似ている。
 例えば、子どもは時計を必要としない。正午とはいえ夢中になっている遊びを
やめて食事をしたりはしないし、眠くなればいつでも眠る。
時計の刻む時間は文化の産物であり、自然の時間とは違うということを
私たちに気づかせてくれるのが、子どもという生き物なのである。
 子どもと暮らすということは、自然と文化との対立を日々経験する
ことにほかならない。もちろん私も例外ではなく幼いわが子との毎日で
文化のもろさを思い知らされている。そして、その視点で世の中を見れば、
なんと不自然なことか。
 例えば、男と女ということについて、時々こんなことを考える。
 わが息子は日々闘いごっこに明け暮れている。
個人差はあれ、男の子というものは誰に教えられたわけでもないのに、
ままごとや人形の世話より、闘いごっこを選ぶことが多い。
闘いによって繁殖相手を多く獲得すれば、自分の子孫を増やせるというのが
ヒトの雄だから、すでにその傾向が見られるのかもしれない。
 マスコミで男女共同参画などよく聞くけれど、雌雄のこんな違いが
頭の片隅にでもあってほしい。男らしさ、女らしさには文化のにおいがするが、
雄や雌は自然だ。文化なら人々の合意によって変えることができるが、
自然を変えることはできない。何が自然かを見極めて暮らしたいと思う。
 気になることはまだある。地球温暖化が深刻化する中で、マスコミへの
登場が増えている「持続可能」をめぐる考え方についてだ。
 持続可能を考えるときには、過去から連綿と受け継がれているものを
思い出せばよい。それは何か。自然界の循環であり、自然と人とが共に
歩んできた時代に流れていた時間である。
 科学技術の進歩や経済の発展に助けられる部分もあるだろう。
しかしながら、それらの持続性はまだ、評価に値するとは言いにくい。
持続可能を言うなら、人の営みの持続性が、自然のそれに勝ることはない
という事実を謙虚に受け止める必要がありはしないだろうか。
 文化を捨てて自然に帰ろうと言っているわけではない。
私はただ、文化の糸を丁寧に紡ぎつつ、自然という大きな土台の上に
自分たちがいるということを忘れずにいようと言いたいだけだ。
 幼いわが子やその友達は、文化の中で忘れてしまった大切なことを、
大量の情報を提供するマスコミも教えてくれないことを、私に教えてくれる。
              (自然環境教育えことのは理事長)

 不自然≠文化。
これには目を奪われました。
文化的に生きているということは、自然のリズムの中で
生きているとは言えないのですね。
だからといって、子どものように眠たいから眠る・・なんて生活はできない。
それでも、この文の最後にあるように、『自然という大きな土台の上に
自分たちがいるということは忘れずにいよう』ということが大事なのでしょう。