◎ガリレオ・ガリレイ (6)太陽黒点論
★ガリレオは、1613年春に「太陽黒点とその諸属性に関する話と証明」(「太陽黒点論」)と題する書を出版した
これはイタリア語で書かれ、「太陽黒点についての手紙」と呼ばれている
その契機となったのは、イエズス会士クリストフ・シャイナーの「太陽黒点に関する三書簡」を銀行家マルクス・ヴェルザーから受け取ったことである
○1612年1月初め
イエズス会士クリストフ・シャイナーが「太陽黒点に関する三書簡」を刊行する
・黒点は眼の錯覚でもレンズの傷によるものでもなく、大気中にあるものでもない
・シャイナーは黒点は、太陽表面上にはなく、太陽の周りをまわる天体であり、太陽と水星および金星の間にあるだろうと推測する
○1月、ガリレオは「太陽黒点に関する三書簡」を銀行家マルクス・ヴェルザーから受け取る
・ヴェルザーへの返答として、ガリレオは3通の手紙を書いた
○2月中頃、ガリレオは黒点観測を始める
ガリレオは黒点の形が日々、変化していることに気づいた
また、ガリレオは太陽が自転していることに気づいた
○5月初め、カステッリから投影法(接眼レンズの近くに置いた白い紙にあらかじめ描かれた円の上に太陽の像を投影する)という新しい黒点観測の方法を知る
これにより太陽を直接眼で見る危険をおかす必要がなくなった
○6月初め、ガリレオは第1の手紙を書く
黒点は実在物であり、眼や眼鏡にうつる幻想でもないというシャイナーの見解に賛同する
しかし、シャイナーが黒点が太陽と水星および金星の間にある天体の影であるとするのは誤りであると主張する
○7月、シャイナー「より精緻な探求」を刊行してガリレオの主張を批判
○8月中頃、ガリレオは第2の手紙を書く(シャイナーの「より精緻な探求」は知らない)
黒点が太陽表面上あるいはすぐ近くにあること
黒点の運動は太陽本体の自転によるものであること
太陽表面が変化しているように天上界は不変ではないことを主張
アリストテレスも、太陽黒点の観測結果を知ったならば、太陽の可変性を認めるだろうと述べる
○12月初め、ガリレオは第3の手紙を完成する
黒点が太陽表面かその近くにある雲のようなものであること
○1613年3月末頃、3通の手紙は「太陽黒点とその諸属性に関する話と証明」としてローマで刊行された
●太陽黒点は、アリストテレスの宇宙論に対する反証となるものだった
★ガリレオは、1613年春に「太陽黒点とその諸属性に関する話と証明」(「太陽黒点論」)と題する書を出版した
これはイタリア語で書かれ、「太陽黒点についての手紙」と呼ばれている
その契機となったのは、イエズス会士クリストフ・シャイナーの「太陽黒点に関する三書簡」を銀行家マルクス・ヴェルザーから受け取ったことである
○1612年1月初め
イエズス会士クリストフ・シャイナーが「太陽黒点に関する三書簡」を刊行する
・黒点は眼の錯覚でもレンズの傷によるものでもなく、大気中にあるものでもない
・シャイナーは黒点は、太陽表面上にはなく、太陽の周りをまわる天体であり、太陽と水星および金星の間にあるだろうと推測する
○1月、ガリレオは「太陽黒点に関する三書簡」を銀行家マルクス・ヴェルザーから受け取る
・ヴェルザーへの返答として、ガリレオは3通の手紙を書いた
○2月中頃、ガリレオは黒点観測を始める
ガリレオは黒点の形が日々、変化していることに気づいた
また、ガリレオは太陽が自転していることに気づいた
○5月初め、カステッリから投影法(接眼レンズの近くに置いた白い紙にあらかじめ描かれた円の上に太陽の像を投影する)という新しい黒点観測の方法を知る
これにより太陽を直接眼で見る危険をおかす必要がなくなった
○6月初め、ガリレオは第1の手紙を書く
黒点は実在物であり、眼や眼鏡にうつる幻想でもないというシャイナーの見解に賛同する
しかし、シャイナーが黒点が太陽と水星および金星の間にある天体の影であるとするのは誤りであると主張する
○7月、シャイナー「より精緻な探求」を刊行してガリレオの主張を批判
○8月中頃、ガリレオは第2の手紙を書く(シャイナーの「より精緻な探求」は知らない)
黒点が太陽表面上あるいはすぐ近くにあること
黒点の運動は太陽本体の自転によるものであること
太陽表面が変化しているように天上界は不変ではないことを主張
アリストテレスも、太陽黒点の観測結果を知ったならば、太陽の可変性を認めるだろうと述べる
○12月初め、ガリレオは第3の手紙を完成する
黒点が太陽表面かその近くにある雲のようなものであること
○1613年3月末頃、3通の手紙は「太陽黒点とその諸属性に関する話と証明」としてローマで刊行された
●太陽黒点は、アリストテレスの宇宙論に対する反証となるものだった