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おっちゃんの世界史の栞 16 ヘレニズム時代

2010-07-18 16:56:24 | HKT48 AKB48
(2)古代ギリシア世界 6 ヘレニズム時代

〈アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)〉(前356~前323)
・マケドニアのフィリッポス2世の子として生まれた。
・13歳でフィリッポス2世が招いたアリストテレスについて学び、ギリシア的教養を身につけた。
・前336年、父王は娘クレオパトラの結婚式の祝宴中に、パウサニアスに暗殺された。
・アレクサンドロスは20歳で王位につき、東方遠征を行って、世界帝国を建設し、大王と呼ばれるようになる。

★イッソスの戦い(前333年)
・アレクサンドロス軍はペルシア王ダレイオス3世の軍を破る。
・ダレイオスは逃亡し、その際、財宝だけではなく、母や妃、王女ら王家の子女たちも置き去りにしたが、アレクサンドロスはこれら王族をその身分にふさわしく丁重に扱ったという。

★アレクサンドリア
・前332年にはエジプトに入り、前331年4月、ナイル川河口に都市を建設し、アレクサンドリアと名付けた。
・アレクサンドロスはデルタ沿岸に大艦隊を停泊させる良港がないことに気付き、彼の名前を冠した最初の都市アレクサンドリア建設に着手し、みずからも設計図を引いたという。
・アレクサンドリアは国際的な穀物取引の中心として、学問の都として繁栄し、ヘレニズム世界最大の都市となった。

・前330年1月、アレクサンドロスはペルシアの都ペルセポリスに入城し、兵士たちは略奪、暴行の限りをつくし、宮殿を焼き払い、アケメネス朝ペルシアは滅びる。
・前327年、アレクサンドロスはインド征服に向かい、前326年インダス川を渡り、インドに入った。
・アレクサンドロスはさらにガンジス川を目指したが、インダス川の支流ヒュパシス川で兵士の忍耐も限界に達し、これ以上の進軍を拒否し、アレクサンドロスは撤退を決意した。
・帰路の行軍も困難をきわめ、前324年5月、スサにたどりついた。
・スサで、アレクサンドロスはペルシアの王女2人と結婚し、同時に側近のマケドニア貴族たちや将兵たちもペルシア女性たちと結ばれ、合同の結婚式が行われた。
・アレクサンドロスは、次にアラビア遠征を計画していたが、前323年6月、マラリアかなにかの高熱で倒れ、32歳で死去した。
・アレクサンドロスの死因として、ほかに、インドの王侯から献上された美女の毒女にやられたという毒殺説もある。

〈ヘレニズム文化〉
・アレクサンドロスの広大な領地にはギリシア語が共通語(コイネー)として普及した。
・ヘブライ語の旧約聖書はコイネーに翻訳され、新約聖書の原典はコイネーで書かれた。

★ヘレニズム
・ヘレネスはギリシア人の自称
・19世紀のドイツの歴史家ドロイゼンが著書「ヘレニズム史」で、アレクサンドロス大王の帝国建設(前323年)からローマによるエジプト併合(前30年)までの約300年間を「ヘレニズム」(ギリシア風の意)と命名した。
・広義にはヘブライズム(キリスト教的伝統)とともにヨーロッパ文化の2大源流をなすギリシア文化的伝統をさす。

★ゼノン
・ストア学派の祖。
・自然と合致して生きることが内的満足としての幸福につながるとする。

★エピクロス
・エピクロス学派の祖。
・哲学を論理学・自然学・倫理学に3分し、論理学は自然学に、自然学は倫理学に奉仕すべきものとした。
・エピクロスが理想とした生活は、死や神への恐怖を免れ、肉体に苦痛がなく心が平穏であることで、これを「快楽」と呼んだ。
・エピクロス学派を俗に「快楽主義」というが、これは現在使われるような「快楽主義」とは意味が異なるものである。

★アルキメデス(前287年頃~前212頃)
・ギリシアの数学者・物理学者・技術家。
・シチリア島のシラクサで生まれ、アレクサンドリアで学問を修めた。
・シラクサに帰り、複滑車、投石機、らせん式水揚げ機などを発明した。
・球の体積・表面積に関する研究はアルキメデスによって初めてなされた。

★アルキメデスの原理
・流体中に静止している物体の受ける浮力は、物体が押しのけた流体の重さ(流体の密度×物体の体積)に等しいという原理
・アルキメデスが入浴中に「アルキメデスの原理」を発見したというのは、のちの創り話である。
・アルキメデスが入浴中に浴槽につかったとき、あふれる湯を見て「アルキメデスの原理」を発見したというエピソードは、アルキメデスの死後200年ほどのち、ローマの建築家ウィトルウィウスが書いた「建築十書」にでてくる。
・アルキメデスが生きた当時、紀元前3世紀ごろまでは、どっぷりとつかるような浴槽はなかった。現在の風呂はなく、当時は湯や水を浴びる沐浴だけだった。
・浴槽がなかったのに、裸で浴槽を飛び出し「わかった(ヘウレカ(ユリイカ))」と叫ぶはずはない。



おっちゃんの世界史の栞 15 ギリシア文化

2010-07-10 17:59:32 | HKT48 AKB48
(2)古代ギリシア世界 5 ギリシア文化

〈イオニア学派(ミレトス学派)〉
・前600年ごろより、イオニア諸市、特にミレトスに輩出した自然哲学者たちをいう。
・タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス、ヘラクレイトスなど

★タレス
・「世界の根源は何か」という問いを考え出し、万物の根源は水であるという説をとなえた。
・超自然的な神々ではなく、実在の物質である「水」によって世界を統一的に説明しようとした。
・西洋哲学の始祖とされている。
・前585年5月28日の皆既日食を予言した。
・ピラミッドの高さを測定したとされる。

★アナクシマンドロス
・タレスの弟子で、量も質も限定されない「無限定なもの」が万物の根源だとした。
・日時計や地図などを考案したとされる。
・人間は魚から変化したという一種の進化論の考え方をした。

★アナクシメネス
・アナクシマンドロスの弟子で、万物の根源は「(空)気」だとした。
・気が希薄になると火になり、濃くなると風になり、以下濃くなるにつれて雲、水、土、石となり、他のあらゆるものがこれらのものから成ると考えたという。

★ヘラクレイトス
・万物の根源は「永遠に生きている火」であり、一切は火に発して火に還り、万物は生成・流転するとした。
・万物の根源を火としたというのは、アリストテレスの解釈である。
・「万物は流転する」との言葉は「同じ川に二度と足を踏み入れることはできないであろう」という断片を「すべては去りつつあり、何ものもとどまらない」ことの喩えとしたプラトンによる引用から始まり、これを一言で言い換えたものだという。
・ディオゲネス・ラエルティオスの「哲学者列伝」によれば、宇宙、政治、神学を主題とした「自然について」という著書があったという。(断片が残るのみ)

〈ピタゴラス学派〉
★ピタゴラス
・「万物の始原は数である」とする。
・ミレトス学派の人々が「世界は何から作られているか」を問題としたのに対し、ピタゴラス学派の人々は「世界はどのように存在しているか」を問題とし、その解答が「万物の始原は数である」だった。
・世界は数学的秩序を内在しているという自然観である。

★ピタゴラス学派の四科
・ピタゴラス学派の人々は数学的学問を「数論」「音階論」「幾何学」「天文学」の4つに分けた。
・ピタゴラス学派の伝統は、中世に至って、「修辞学」「文法」「論理学」の「三科」が付け加えられ、中世の大学における必修科目の「自由七学科」へと発展していく。

★ピタゴラス音階
・ピタゴラスは史上初の音階を作り上げた。

★ピタゴラスの定理(三平方の定理)
・ピタゴラスの定理は、ピタゴラスが発見したものではなく、ピタゴラスの定理に相当する内容は古代メソポタミアのシュメール人にすでに知られていた。(ただし、三平方の定理が正しいことの証明を示した記録は残されていない)

・円周率の値も古代エジプト人よりも前にシュメール人が計算していた。
・バビロニアの図書館の粘土板には、九九、分数、平方根、立方根の表が残されており、2次方程式やユークリッド幾何学も発達していた。

★無理量の発見
・1辺が1の正方形の対角線の長さは無理数でしか表現できない量であり、そのような量が存在することを知り得たが、それは「万物の始原は数である」というピタゴラス学派の教義に反することなので、この事実は門外不出とされたという。

〈アテネ3大哲学者〉
★ソクラテス
・対話や問答を通じて人々に無知を悟らせ、そこから真の知へ開眼させる活動を行った。
・民主派によって「青年を害し、国家の神々を信じないで、新しい精霊を持ちこむ」という容疑で告発された。
・法廷で弁護に務めたが死刑の判決を受け、1か月間の入獄中に友人から脱走をすすめられたが「悪法といえども国家の法に従うべし」といって毒杯を仰いで死んだ。
・自身の著書は残さなかったが、弟子のプラトンの「対話篇」のなかの「ソクラテスの弁明」「クリトン」「饗宴」などにソクラテスの教説・行動が記されている。

★プラトン
・ソクラテスに師事し、ソクラテスの死後、エジプト、シチリアなどを遍歴。40歳のころアカデメイアを創設し、研究・教育と執筆に専念し80歳で没した。
・著作は、魂の不死を説き、イデア論を展開した「ファイドン」、理想国家を論じた「国家」など。

★アリストテレス
・アカデメイアに20年間学びかつ教えた。
・アレクサンドロス大王の若き日の教育係となった。
・アテネに学園「リュケイオン」を開設し、逍遥学派を形成した。
・哲学・政治・倫理・歴史・経済・心理・論理・美学・生物の諸学におよぶ「万学の祖」であり、古代の学問の集大成者であった。
・著作は、「政治学」「ニコマコス倫理学」「形而上学」「アテナイ人の国制」など。

〈ギリシア建築〉
★ドーリア式(ドーリス式)
・飾りのない柱頭とエンタシスを特徴とする先細りの円柱
・代表例はパルテノン神殿

★イオニア式
・丸い台座と渦巻き形の柱頭を持つ円柱
・ドーリア式より細身で優美
・代表例はアテネのエレクテイオン

★コリント式
・実際にあるのは、ドーリア式とイオニア式の2つのオーダー(柱式)のみで、コリント式はイオニア式の変形である。
・柱頭にアカンサスの葉がデザインされる




おっちゃんの世界史の栞 14

2010-07-10 17:51:45 | HKT48 AKB48
(2)古代ギリシア世界 4 ペルシア戦争とペロポネソス戦争

〈ペルシア戦争
・前500~前448年(狭義には前492~前449年)にわたるアケメネス朝ペルシアとギリシア諸市の戦争。
・前499年、イオニアの諸ポリスは、ミレトスのアリスタゴラスを中心に、ダレイオス1世のペルシア支配に抵抗して反乱を起こした。(イオニアの反乱)
・アリスタゴラスはギリシア本土に援助を要請、スパルタは拒否するが、アテネとエレトリアはそれぞれ20隻と5隻の軍船を送った。
・前498年、ギリシア軍はサルディスを焼き払う。前497年になると、ペルシアは反抗を開始。前494年、イオニア側はラデ島沖の海戦で敗れ、前493年ミレトスが攻略されて反乱は失敗に終わった。

・イオニアの反乱を支持したアテネとエレトリアの討伐を目的に、ダレイオス1世はギリシアへの遠征を企てた。
・第1回遠征(前492年)は、遠征軍が海難にあい中止。
・第2回遠征(前490年)では、ペルシア軍はアッティカ北東岸のマラトンに上陸した。

★マラトンの戦い
・マラトン平野でミルティアデス率いるアテネ軍とプラタイア軍が、ペルシア軍と交戦し、ペルシア軍を撃退した。
・長い槍と重装のギリシア歩兵が、短い槍と軽装のペルシア歩兵を破った。
・ヘロドトスによれば、ギリシア軍死者192人に対し、ペルシア軍死者は6400人だった。
・スパルタの支援なしで、ペルシアの大軍を撃退したことで、ギリシア世界におけるアテネの評価は高まった。
・第3回遠征(前480年)では、ダレイオス1世はすでに亡く、息子のクセルクセス1世が遠征。

★テルモピュライの戦い(前480年)
・ギリシア軍はペルシア軍に挟み撃ちにされることになるが、スパルタ王レオニダスは、撤退を希望する者にはそれを勧め、レオニダス王と部下300人、それに彼らと運命をともにする決意をしたテスピアイ人がとどまり、ペルシア軍を迎え撃った。スパルタ兵たちは、槍や刀で戦い、最後には短剣や素手で戦い、歯でかみついて戦ったがついにはペルシア軍の矢の攻撃のまえに、全員が討ち死にした。
・ペルシア軍はアクロポリスまで到達し、攻略した。

★サラミスの海戦(前480年)
・テミストクレスの策により、ペルシア艦隊は狭いサラミス水道に誘い込まれ、機動力を発揮するギリシア艦隊にかき乱され、互いに衝突しあいギリシア艦隊に敗れた。

★プラタイアの戦い(前479年)
・プラタイアの平野で、ギリシア連合軍がマルドニオス率いるペルシア軍に勝利した。

★ミュカレ岬の戦い(前479年)
・小アジア沿岸のミュカレ岬でギリシア連合艦隊がペルシア艦隊に勝利した。

・プラタイアの戦い、ミュカレ岬の戦いでギリシアの勝利は確定し、ペルシア軍は再びギリシア本土に侵攻することはなくなった。
・前449年、カリアスの和約でペルシア戦争は終結した。

★デロス同盟
・前478年、ペルシア再来征に備えてアテネを盟主に対ペルシア攻守同盟が結成された。
・本部と金庫はデロス島に置かれ、同盟会議で参加諸国は平等に1票の投票権を行使できるとされた。
・しかし、軍船を提供する国と拠出金を提供する国の決定、拠出金の額の決定はアテネが行う。会計を担当する委員10名はアテネ人から選出された。
・前454年、同盟金庫がアテネに移され、以後デロス同盟は「アテネ帝国」と呼ばれる支配機構に変質する。
・同盟諸国の毎年の拠出金は、パルテノン神殿の建設費用に充当されたり、役職への手当に流用されたり、アテネの繁栄の資金源の一つになった。

★ペリクレス時代
・ペリクレスはパルテノン神殿の建設事業を行った。(前447~前438年)
 監督はフェイディアス。
・前451年、「市民権法」が成立し、アテネ市民権は両親ともアテネ人である者に限ると定められた。

〈ペロポネソス戦争〉
・前431~前404年、アテネを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟の間に行われたギリシアの覇権をめぐる戦争。
・アテネはペリクレスの死後劣勢となり、ペルシアの援助を得たスパルタに敗北した。
・戦後、ギリシアのポリス社会は衰退していった。