(2)古代ギリシア世界 6 ヘレニズム時代
〈アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)〉(前356~前323)
・マケドニアのフィリッポス2世の子として生まれた。
・13歳でフィリッポス2世が招いたアリストテレスについて学び、ギリシア的教養を身につけた。
・前336年、父王は娘クレオパトラの結婚式の祝宴中に、パウサニアスに暗殺された。
・アレクサンドロスは20歳で王位につき、東方遠征を行って、世界帝国を建設し、大王と呼ばれるようになる。
★イッソスの戦い(前333年)
・アレクサンドロス軍はペルシア王ダレイオス3世の軍を破る。
・ダレイオスは逃亡し、その際、財宝だけではなく、母や妃、王女ら王家の子女たちも置き去りにしたが、アレクサンドロスはこれら王族をその身分にふさわしく丁重に扱ったという。
★アレクサンドリア
・前332年にはエジプトに入り、前331年4月、ナイル川河口に都市を建設し、アレクサンドリアと名付けた。
・アレクサンドロスはデルタ沿岸に大艦隊を停泊させる良港がないことに気付き、彼の名前を冠した最初の都市アレクサンドリア建設に着手し、みずからも設計図を引いたという。
・アレクサンドリアは国際的な穀物取引の中心として、学問の都として繁栄し、ヘレニズム世界最大の都市となった。
・前330年1月、アレクサンドロスはペルシアの都ペルセポリスに入城し、兵士たちは略奪、暴行の限りをつくし、宮殿を焼き払い、アケメネス朝ペルシアは滅びる。
・前327年、アレクサンドロスはインド征服に向かい、前326年インダス川を渡り、インドに入った。
・アレクサンドロスはさらにガンジス川を目指したが、インダス川の支流ヒュパシス川で兵士の忍耐も限界に達し、これ以上の進軍を拒否し、アレクサンドロスは撤退を決意した。
・帰路の行軍も困難をきわめ、前324年5月、スサにたどりついた。
・スサで、アレクサンドロスはペルシアの王女2人と結婚し、同時に側近のマケドニア貴族たちや将兵たちもペルシア女性たちと結ばれ、合同の結婚式が行われた。
・アレクサンドロスは、次にアラビア遠征を計画していたが、前323年6月、マラリアかなにかの高熱で倒れ、32歳で死去した。
・アレクサンドロスの死因として、ほかに、インドの王侯から献上された美女の毒女にやられたという毒殺説もある。
〈ヘレニズム文化〉
・アレクサンドロスの広大な領地にはギリシア語が共通語(コイネー)として普及した。
・ヘブライ語の旧約聖書はコイネーに翻訳され、新約聖書の原典はコイネーで書かれた。
★ヘレニズム
・ヘレネスはギリシア人の自称
・19世紀のドイツの歴史家ドロイゼンが著書「ヘレニズム史」で、アレクサンドロス大王の帝国建設(前323年)からローマによるエジプト併合(前30年)までの約300年間を「ヘレニズム」(ギリシア風の意)と命名した。
・広義にはヘブライズム(キリスト教的伝統)とともにヨーロッパ文化の2大源流をなすギリシア文化的伝統をさす。
★ゼノン
・ストア学派の祖。
・自然と合致して生きることが内的満足としての幸福につながるとする。
★エピクロス
・エピクロス学派の祖。
・哲学を論理学・自然学・倫理学に3分し、論理学は自然学に、自然学は倫理学に奉仕すべきものとした。
・エピクロスが理想とした生活は、死や神への恐怖を免れ、肉体に苦痛がなく心が平穏であることで、これを「快楽」と呼んだ。
・エピクロス学派を俗に「快楽主義」というが、これは現在使われるような「快楽主義」とは意味が異なるものである。
★アルキメデス(前287年頃~前212頃)
・ギリシアの数学者・物理学者・技術家。
・シチリア島のシラクサで生まれ、アレクサンドリアで学問を修めた。
・シラクサに帰り、複滑車、投石機、らせん式水揚げ機などを発明した。
・球の体積・表面積に関する研究はアルキメデスによって初めてなされた。
★アルキメデスの原理
・流体中に静止している物体の受ける浮力は、物体が押しのけた流体の重さ(流体の密度×物体の体積)に等しいという原理
・アルキメデスが入浴中に「アルキメデスの原理」を発見したというのは、のちの創り話である。
・アルキメデスが入浴中に浴槽につかったとき、あふれる湯を見て「アルキメデスの原理」を発見したというエピソードは、アルキメデスの死後200年ほどのち、ローマの建築家ウィトルウィウスが書いた「建築十書」にでてくる。
・アルキメデスが生きた当時、紀元前3世紀ごろまでは、どっぷりとつかるような浴槽はなかった。現在の風呂はなく、当時は湯や水を浴びる沐浴だけだった。
・浴槽がなかったのに、裸で浴槽を飛び出し「わかった(ヘウレカ(ユリイカ))」と叫ぶはずはない。
〈アレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)〉(前356~前323)
・マケドニアのフィリッポス2世の子として生まれた。
・13歳でフィリッポス2世が招いたアリストテレスについて学び、ギリシア的教養を身につけた。
・前336年、父王は娘クレオパトラの結婚式の祝宴中に、パウサニアスに暗殺された。
・アレクサンドロスは20歳で王位につき、東方遠征を行って、世界帝国を建設し、大王と呼ばれるようになる。
★イッソスの戦い(前333年)
・アレクサンドロス軍はペルシア王ダレイオス3世の軍を破る。
・ダレイオスは逃亡し、その際、財宝だけではなく、母や妃、王女ら王家の子女たちも置き去りにしたが、アレクサンドロスはこれら王族をその身分にふさわしく丁重に扱ったという。
★アレクサンドリア
・前332年にはエジプトに入り、前331年4月、ナイル川河口に都市を建設し、アレクサンドリアと名付けた。
・アレクサンドロスはデルタ沿岸に大艦隊を停泊させる良港がないことに気付き、彼の名前を冠した最初の都市アレクサンドリア建設に着手し、みずからも設計図を引いたという。
・アレクサンドリアは国際的な穀物取引の中心として、学問の都として繁栄し、ヘレニズム世界最大の都市となった。
・前330年1月、アレクサンドロスはペルシアの都ペルセポリスに入城し、兵士たちは略奪、暴行の限りをつくし、宮殿を焼き払い、アケメネス朝ペルシアは滅びる。
・前327年、アレクサンドロスはインド征服に向かい、前326年インダス川を渡り、インドに入った。
・アレクサンドロスはさらにガンジス川を目指したが、インダス川の支流ヒュパシス川で兵士の忍耐も限界に達し、これ以上の進軍を拒否し、アレクサンドロスは撤退を決意した。
・帰路の行軍も困難をきわめ、前324年5月、スサにたどりついた。
・スサで、アレクサンドロスはペルシアの王女2人と結婚し、同時に側近のマケドニア貴族たちや将兵たちもペルシア女性たちと結ばれ、合同の結婚式が行われた。
・アレクサンドロスは、次にアラビア遠征を計画していたが、前323年6月、マラリアかなにかの高熱で倒れ、32歳で死去した。
・アレクサンドロスの死因として、ほかに、インドの王侯から献上された美女の毒女にやられたという毒殺説もある。
〈ヘレニズム文化〉
・アレクサンドロスの広大な領地にはギリシア語が共通語(コイネー)として普及した。
・ヘブライ語の旧約聖書はコイネーに翻訳され、新約聖書の原典はコイネーで書かれた。
★ヘレニズム
・ヘレネスはギリシア人の自称
・19世紀のドイツの歴史家ドロイゼンが著書「ヘレニズム史」で、アレクサンドロス大王の帝国建設(前323年)からローマによるエジプト併合(前30年)までの約300年間を「ヘレニズム」(ギリシア風の意)と命名した。
・広義にはヘブライズム(キリスト教的伝統)とともにヨーロッパ文化の2大源流をなすギリシア文化的伝統をさす。
★ゼノン
・ストア学派の祖。
・自然と合致して生きることが内的満足としての幸福につながるとする。
★エピクロス
・エピクロス学派の祖。
・哲学を論理学・自然学・倫理学に3分し、論理学は自然学に、自然学は倫理学に奉仕すべきものとした。
・エピクロスが理想とした生活は、死や神への恐怖を免れ、肉体に苦痛がなく心が平穏であることで、これを「快楽」と呼んだ。
・エピクロス学派を俗に「快楽主義」というが、これは現在使われるような「快楽主義」とは意味が異なるものである。
★アルキメデス(前287年頃~前212頃)
・ギリシアの数学者・物理学者・技術家。
・シチリア島のシラクサで生まれ、アレクサンドリアで学問を修めた。
・シラクサに帰り、複滑車、投石機、らせん式水揚げ機などを発明した。
・球の体積・表面積に関する研究はアルキメデスによって初めてなされた。
★アルキメデスの原理
・流体中に静止している物体の受ける浮力は、物体が押しのけた流体の重さ(流体の密度×物体の体積)に等しいという原理
・アルキメデスが入浴中に「アルキメデスの原理」を発見したというのは、のちの創り話である。
・アルキメデスが入浴中に浴槽につかったとき、あふれる湯を見て「アルキメデスの原理」を発見したというエピソードは、アルキメデスの死後200年ほどのち、ローマの建築家ウィトルウィウスが書いた「建築十書」にでてくる。
・アルキメデスが生きた当時、紀元前3世紀ごろまでは、どっぷりとつかるような浴槽はなかった。現在の風呂はなく、当時は湯や水を浴びる沐浴だけだった。
・浴槽がなかったのに、裸で浴槽を飛び出し「わかった(ヘウレカ(ユリイカ))」と叫ぶはずはない。