(3)古代ローマ世界 3 共和政ローマ/2
〈ポエニ戦争〉
・3回におよぶポエニ戦争のはてに、ローマはカルタゴを焼き破壊しつくした。
★第1回ポエニ戦争 前264~241年
・前264年、シチリア島のギリシア人植民市メッサナを占領していたマメルティニと呼ばれるカンパニア出身の傭兵隊がシラクサ王ヒエロン2世に攻囲されて、マメルティニがカルタゴとローマの双方に援軍を要請したことにはじまった。
・当時カルタゴは新型の5段橈船を持っていたが、ローマは時代おくれの3段橈船しか持っていなかった。
・ローマはカルタゴ艦隊に対抗するために新装備の大型艦隊を建造した。
・このころの海戦は、まず船と船をぶつけ合い敵艦を撃破し、敵艦に歩兵が乗り移り戦うというものであった。
・新装備とは、船首にマストから綱でつった跳ね橋で、敵艦に近づいたとき綱をゆるめて敵甲板に跳ね橋を降ろし、その先端につけた鉄鉤で敵艦とつないでしまう。そして跳ね橋から歩兵を敵艦に送りこむ。
・前241年、ローマもカルタゴもそれ以上の戦いをこのまず、和平が成立した。
・カルタゴはローマに賠償金を支払い、ローマはシチリア島を獲得し「属州」とした。
・ローマはさらに、サルデーニャ島、コルシカ島をも得る。
★第2回ポエニ戦争 前218~201年
・前219年、ハンニバル軍がローマの同盟都市サグントュムを攻略した。
・ローマの大使がハンニバルの引き渡しを求めてカルタゴに到着したが、カルタゴは拒否した。
・前218年、ハンニバル軍はローマをめざし、ローマとカルタゴの軍事境界線のエブロ川を渡った。
・ピレネー山脈を越え、ローヌ川に到着。このとき、歩兵3万8000、騎兵8000、象37頭だったという。
・ハンニバル軍はアルプスを越える。このとき、歩兵2万、騎兵6000、象20頭しか残らなかったという。
◎カンネーの戦い 前216年8月
・ローマの兵力は7万6000、そのうち重装歩兵5万5000、軽装兵1万5000、騎兵6000
・カルタゴの兵力は5万、そのうち歩兵3万、軽装兵1万、騎兵1万。
・ローマ軍は全力を中央部に集中させていた。
・ハンニバルは中央部に歩兵軍団をおき、凸型半月形に突出させ、両翼に騎兵隊を配備した。
・ローマ軍の重装歩兵軍団はハンニバル軍の中央部を攻撃し、ハンニバル軍は後退し、中央部がへこむ凹型半月形になった。
・ローマ軍は中央がふくらみ、正面突破する勢いだったが、ハンニバルはこの時を待っていた。
・ローマ軍の側面を重装歩兵が攻撃するとともに、両翼に配備した騎兵隊がカルタゴ軍の背後にまわり込み、ローマ軍を包囲した形になった。
・ローマ軍は壊滅した。死者は5万人以上という。
◎ザマの戦い 前202年
・プブリウス・スキピオ(大スキピオ)率いるローマ軍がハンニバル軍を破る。
・カンネーでのハンニバルの戦術が、そっくりそのままスキピオの戦術となり、カルタゴ軍は包囲され、ローマ軍の勝利となった。
★第3回ポエニ戦争 前149~146年
・前149年、ローマはカルタゴに宣戦布告。前146年、スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ、大スキピオの長男の養子)率いるローマ軍は3年にわたる包囲戦のすえカルタゴを陥落した。
・6日間に及ぶ市街戦のあと、カルタゴ市民軍は降伏した。
・総人口50万人のうち、生き残った5万5000人の男女は奴隷として売られ、建物はことごとく破壊された。町は焼き尽くされ、廃墟は地ならしされ、不毛の地たるべく塩がまかれ、カルタゴは地上から姿を消した。
・元老院はカルタゴだけでなくカルタゴの全領土の徹底破壊を命じた。
〈グラックス兄弟の改革〉
・前133年、ティベリウス・グラックスが護民官に選出された。
・ティベリウスは自作農再建をめざし、500ユゲラ(約125ヘクタール)を超える公有地を占有する者は、その超える分を国に返し、その土地を無産市民に分配するという土地改革案を提出した。
・それに、息子が2人までなら、それぞれ250ユゲラ、総計1000ユゲラまでは占有してもいいとしていた。
・大土地所有者の貴族や富裕者の抵抗は猛烈だった。
・反対派はもうひとりの護民官のオクタウィウスに拒否権を発動させたが、ティベリウスはオクタウィウスの罷免を提案し過半数を獲得しオクタウィウスを排斥、土地改革法案は成立した。大土地所有者の集う元老院が黙っているはずはない。
・ティベリウスは護民官への再選を企てたが、元老院の過激派は民会の議場を襲い、ティベリウスとその一派100人以上が撲殺され、遺体はテヴェレ川に投げ捨てられたという。
・前123年、ティベリウスの弟のガイウスが護民官に当選し、兄の改革を引き継いで土地分配を実行に移す。
・ガイウスの改革案は兄を超えるもので、住民に安価な穀物を供給すること、同盟市の住民にもローマ市民権を与えることなども含んでいた。
・前121年、ガイウスは改革反対派に追いつめられ、自殺をとげた。
〈スパルタクスの反乱〉前73年
・前73年、剣闘士奴隷スパルタクスは70人あまりの仲間とともにカプアの剣闘士養成所を脱走して反乱をおこす。
・逃亡奴隷や貧民が参加してその勢力は一時12万に達した。
・スパルタクスはクラッススの討伐軍と戦って戦死し、残党もポンペイウスに討伐された。
・ローマはこの制圧に2年を要し、のちにスパルタクスは英雄として伝説化された。
・捕えられた6000人の奴隷たちは、カプアからローマにいたるアッピア街道にそって十字架にかけられたという。
〈第1回三頭政治〉ポンペイウス、クラッスス、カエサル
・前60年、武勲者ポンペイウスと大富豪クラッススとカエサルの間で密約が結ばれた。
・前59年、カエサルはポンペイウスとクラッススの助力で統領に当選した。
・カエサルはポンペイウスとの絆を強めるため、娘のユリアをポンペイウスと結婚させた。
・前58年、カエサルはガリアでの軍事指揮権を獲得し、アルプス北方のガリアへの遠征を開始した。
・ガリアと呼ばれるのは、北イタリア、フランス、ベルギーにわたる広大な地域であり、ローマ領に属していたのは、北イタリアと地中海沿岸部で、一部にすぎなかった。
・カエサルはガリア全土の征服にのりだしたのである。
・ガリアの地に住むのはケルト人であったが、ケルト文化はローマ文化圏の拡大によって追いやられていった。
★ガリア戦記
・ガリア遠征の記録で全8巻。第7巻までカエサルの直筆。第8巻は部下のヒルティウスの加筆。
・「ガリア戦記」は軍の総司令官自らがつづった価値あるものであり、ラテン語の名文として名高い。
・前54年ユリアが死亡すると、カエサルとポンペイウスの絆は切れてしまった。
・前53年グラッススはパルティア遠征に出陣し、カルラエで戦死した。
・元老院保守派はポンペイウスをかつぎだし、反カエサル派の中心人物にまつりあげる。
★ルビコン川を渡る
・前51年、ガリアを平定したカエサルは、帰国し、凱旋式をあげ、統領に立候補したかった。
・凱旋式をあげるには、軍隊を手放せず、軍隊を解散しなければローマ市内に入れず、統領にも立候補できない。
・武装解除せず軍隊を率いたままルビコン川を越えれば国法に違反することになる。
・前49年1月10日、カエサルは「賽は投げられた」と言って、兵を率いてルビコン川を渡り、ポンペイウス軍に向かって進撃を開始した。
・前48年、ギリシア北方のファルサロスの戦いで、カエサルに敗れたポンペイウスはエジプトに逃れるが、9月28日暗殺された。
・カエサルはポンペイウス暗殺の数日後、アレクサンドリアに到着し、女王クレオパトラと出会う。
・前46年、カエサルは太陽暦(ユリウス暦)を導入して、前45年1月1日から実施した。
・前44年2月以降、カエサルは終身の独裁官となる。
〈カエサル暗殺〉
・前44年3月15日、カエサルはカッシウスなど元老院議員により暗殺された。
・14日の夜、カエサルの妻カルプルニアは夫が血に染まっている夢を見て、翌朝元老院へ出ないでくれと嘆願した。
・ある占い師が3月15日が彼にとって運命の日となるだろうと予言したことを思い出させた。
・カエサルが元老院議場に入った。
・プルタルコスの「英雄伝」(105~115年頃成立)によれば、最初にカスカがカエサルの背後からカエサルの首に短剣で切りつけた。その後、20数人が短剣を取りだして八方からカエサルに襲いかかった。このとき、ブルートゥスが後ろから肩に斬りつけた。
カエサルは23か所の傷を受けて絶命した。
★カエサルは「ブルートゥス、お前もか」などとは言っていない
・プルタルコスの「英雄伝」には「ブルートゥス、お前もか」という言葉は出てこない。
・カエサルはブルートゥスに背後から襲われたのだから、「ブルートゥス、お前もか」などと叫べただろうか
・事件後200年もたった、カッシウス・ディオ(155?~235年)の「ローマ史」には、突然「わが子よ、お前もか」と出てくる。
・のちに、シェークスピアが戯曲「ジュリアス・シーザー」を書き、その中の台詞で Et tu Brute(そしてお前もか、ブルートゥス)とした。
・「ブルートゥス、お前もか」というのはシェークスピアの劇の台詞にすぎない。
・3月18日、カエサルの葬儀が市をあげて催され、アントニウスが追悼演説を述べた。
・カエサルの遺言状には、1億セステルティウスに上る私財の大半が市民各個人に遺贈され、庭園は国に寄付されていた。
・遺言状で後継者に指名されたのは、アントニウスではなくカエサルの甥、ガイウス・オクタヴィアヌス(のちのローマ帝国初代皇帝アウグストゥス)だった。
〈第2回三頭政治〉アントニウス、オクタヴィアヌス、レピドゥス
・前43年、カエサルの養子となったオクタヴィアヌスとカエサルの部下のアントニウス、そしてレピドゥスがコンスル級の権限を有する5年任期の「国家再建のための3人委員」に任命され、第2回三頭政治を始めた。
・前42年、マケドニアのフィリッピにおける二度にわたる戦いで、アントニウスとオクタヴィアヌスはカエサルを暗殺したブルートゥスとカッシウス率いる共和政擁護派の軍を破り、ブルートゥスは自殺した。
・前40年、アントニウスはオクタヴィアヌスの姉オクタウィアと結婚した。
・アントニウスはクレオパトラをキリキアのタルソスに呼び寄せる。
アントニウスもクレオパトラの魅力にとりつかれ、アレクサンドリアに同行する。
・前36年、オクタヴィアヌスはアフリカを支配していたレピドゥスを失脚させた。
・前32年、アントニウスはオクタウィアと離縁し、クレオパトラと結婚する。
・前31年、アクティウムの海戦で、オクタヴィアヌスはアントニウスとクレオパトラの連合艦隊を破った。
・クレオパトラ率いるエジプト艦隊は早々に逃亡し、アントニウスは部下を見捨てて、クレオパトラのあとを追った。
・前30年、オクタヴィアヌスはアレクサンドリアを陥落させ、プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、エジプトはローマの属州となる。
・アントニウスは自殺した。
・クレオパトラは39歳で自殺した。毒蛇に胸を噛ませたという伝説が生まれた。
〈ポエニ戦争〉
・3回におよぶポエニ戦争のはてに、ローマはカルタゴを焼き破壊しつくした。
★第1回ポエニ戦争 前264~241年
・前264年、シチリア島のギリシア人植民市メッサナを占領していたマメルティニと呼ばれるカンパニア出身の傭兵隊がシラクサ王ヒエロン2世に攻囲されて、マメルティニがカルタゴとローマの双方に援軍を要請したことにはじまった。
・当時カルタゴは新型の5段橈船を持っていたが、ローマは時代おくれの3段橈船しか持っていなかった。
・ローマはカルタゴ艦隊に対抗するために新装備の大型艦隊を建造した。
・このころの海戦は、まず船と船をぶつけ合い敵艦を撃破し、敵艦に歩兵が乗り移り戦うというものであった。
・新装備とは、船首にマストから綱でつった跳ね橋で、敵艦に近づいたとき綱をゆるめて敵甲板に跳ね橋を降ろし、その先端につけた鉄鉤で敵艦とつないでしまう。そして跳ね橋から歩兵を敵艦に送りこむ。
・前241年、ローマもカルタゴもそれ以上の戦いをこのまず、和平が成立した。
・カルタゴはローマに賠償金を支払い、ローマはシチリア島を獲得し「属州」とした。
・ローマはさらに、サルデーニャ島、コルシカ島をも得る。
★第2回ポエニ戦争 前218~201年
・前219年、ハンニバル軍がローマの同盟都市サグントュムを攻略した。
・ローマの大使がハンニバルの引き渡しを求めてカルタゴに到着したが、カルタゴは拒否した。
・前218年、ハンニバル軍はローマをめざし、ローマとカルタゴの軍事境界線のエブロ川を渡った。
・ピレネー山脈を越え、ローヌ川に到着。このとき、歩兵3万8000、騎兵8000、象37頭だったという。
・ハンニバル軍はアルプスを越える。このとき、歩兵2万、騎兵6000、象20頭しか残らなかったという。
◎カンネーの戦い 前216年8月
・ローマの兵力は7万6000、そのうち重装歩兵5万5000、軽装兵1万5000、騎兵6000
・カルタゴの兵力は5万、そのうち歩兵3万、軽装兵1万、騎兵1万。
・ローマ軍は全力を中央部に集中させていた。
・ハンニバルは中央部に歩兵軍団をおき、凸型半月形に突出させ、両翼に騎兵隊を配備した。
・ローマ軍の重装歩兵軍団はハンニバル軍の中央部を攻撃し、ハンニバル軍は後退し、中央部がへこむ凹型半月形になった。
・ローマ軍は中央がふくらみ、正面突破する勢いだったが、ハンニバルはこの時を待っていた。
・ローマ軍の側面を重装歩兵が攻撃するとともに、両翼に配備した騎兵隊がカルタゴ軍の背後にまわり込み、ローマ軍を包囲した形になった。
・ローマ軍は壊滅した。死者は5万人以上という。
◎ザマの戦い 前202年
・プブリウス・スキピオ(大スキピオ)率いるローマ軍がハンニバル軍を破る。
・カンネーでのハンニバルの戦術が、そっくりそのままスキピオの戦術となり、カルタゴ軍は包囲され、ローマ軍の勝利となった。
★第3回ポエニ戦争 前149~146年
・前149年、ローマはカルタゴに宣戦布告。前146年、スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ、大スキピオの長男の養子)率いるローマ軍は3年にわたる包囲戦のすえカルタゴを陥落した。
・6日間に及ぶ市街戦のあと、カルタゴ市民軍は降伏した。
・総人口50万人のうち、生き残った5万5000人の男女は奴隷として売られ、建物はことごとく破壊された。町は焼き尽くされ、廃墟は地ならしされ、不毛の地たるべく塩がまかれ、カルタゴは地上から姿を消した。
・元老院はカルタゴだけでなくカルタゴの全領土の徹底破壊を命じた。
〈グラックス兄弟の改革〉
・前133年、ティベリウス・グラックスが護民官に選出された。
・ティベリウスは自作農再建をめざし、500ユゲラ(約125ヘクタール)を超える公有地を占有する者は、その超える分を国に返し、その土地を無産市民に分配するという土地改革案を提出した。
・それに、息子が2人までなら、それぞれ250ユゲラ、総計1000ユゲラまでは占有してもいいとしていた。
・大土地所有者の貴族や富裕者の抵抗は猛烈だった。
・反対派はもうひとりの護民官のオクタウィウスに拒否権を発動させたが、ティベリウスはオクタウィウスの罷免を提案し過半数を獲得しオクタウィウスを排斥、土地改革法案は成立した。大土地所有者の集う元老院が黙っているはずはない。
・ティベリウスは護民官への再選を企てたが、元老院の過激派は民会の議場を襲い、ティベリウスとその一派100人以上が撲殺され、遺体はテヴェレ川に投げ捨てられたという。
・前123年、ティベリウスの弟のガイウスが護民官に当選し、兄の改革を引き継いで土地分配を実行に移す。
・ガイウスの改革案は兄を超えるもので、住民に安価な穀物を供給すること、同盟市の住民にもローマ市民権を与えることなども含んでいた。
・前121年、ガイウスは改革反対派に追いつめられ、自殺をとげた。
〈スパルタクスの反乱〉前73年
・前73年、剣闘士奴隷スパルタクスは70人あまりの仲間とともにカプアの剣闘士養成所を脱走して反乱をおこす。
・逃亡奴隷や貧民が参加してその勢力は一時12万に達した。
・スパルタクスはクラッススの討伐軍と戦って戦死し、残党もポンペイウスに討伐された。
・ローマはこの制圧に2年を要し、のちにスパルタクスは英雄として伝説化された。
・捕えられた6000人の奴隷たちは、カプアからローマにいたるアッピア街道にそって十字架にかけられたという。
〈第1回三頭政治〉ポンペイウス、クラッスス、カエサル
・前60年、武勲者ポンペイウスと大富豪クラッススとカエサルの間で密約が結ばれた。
・前59年、カエサルはポンペイウスとクラッススの助力で統領に当選した。
・カエサルはポンペイウスとの絆を強めるため、娘のユリアをポンペイウスと結婚させた。
・前58年、カエサルはガリアでの軍事指揮権を獲得し、アルプス北方のガリアへの遠征を開始した。
・ガリアと呼ばれるのは、北イタリア、フランス、ベルギーにわたる広大な地域であり、ローマ領に属していたのは、北イタリアと地中海沿岸部で、一部にすぎなかった。
・カエサルはガリア全土の征服にのりだしたのである。
・ガリアの地に住むのはケルト人であったが、ケルト文化はローマ文化圏の拡大によって追いやられていった。
★ガリア戦記
・ガリア遠征の記録で全8巻。第7巻までカエサルの直筆。第8巻は部下のヒルティウスの加筆。
・「ガリア戦記」は軍の総司令官自らがつづった価値あるものであり、ラテン語の名文として名高い。
・前54年ユリアが死亡すると、カエサルとポンペイウスの絆は切れてしまった。
・前53年グラッススはパルティア遠征に出陣し、カルラエで戦死した。
・元老院保守派はポンペイウスをかつぎだし、反カエサル派の中心人物にまつりあげる。
★ルビコン川を渡る
・前51年、ガリアを平定したカエサルは、帰国し、凱旋式をあげ、統領に立候補したかった。
・凱旋式をあげるには、軍隊を手放せず、軍隊を解散しなければローマ市内に入れず、統領にも立候補できない。
・武装解除せず軍隊を率いたままルビコン川を越えれば国法に違反することになる。
・前49年1月10日、カエサルは「賽は投げられた」と言って、兵を率いてルビコン川を渡り、ポンペイウス軍に向かって進撃を開始した。
・前48年、ギリシア北方のファルサロスの戦いで、カエサルに敗れたポンペイウスはエジプトに逃れるが、9月28日暗殺された。
・カエサルはポンペイウス暗殺の数日後、アレクサンドリアに到着し、女王クレオパトラと出会う。
・前46年、カエサルは太陽暦(ユリウス暦)を導入して、前45年1月1日から実施した。
・前44年2月以降、カエサルは終身の独裁官となる。
〈カエサル暗殺〉
・前44年3月15日、カエサルはカッシウスなど元老院議員により暗殺された。
・14日の夜、カエサルの妻カルプルニアは夫が血に染まっている夢を見て、翌朝元老院へ出ないでくれと嘆願した。
・ある占い師が3月15日が彼にとって運命の日となるだろうと予言したことを思い出させた。
・カエサルが元老院議場に入った。
・プルタルコスの「英雄伝」(105~115年頃成立)によれば、最初にカスカがカエサルの背後からカエサルの首に短剣で切りつけた。その後、20数人が短剣を取りだして八方からカエサルに襲いかかった。このとき、ブルートゥスが後ろから肩に斬りつけた。
カエサルは23か所の傷を受けて絶命した。
★カエサルは「ブルートゥス、お前もか」などとは言っていない
・プルタルコスの「英雄伝」には「ブルートゥス、お前もか」という言葉は出てこない。
・カエサルはブルートゥスに背後から襲われたのだから、「ブルートゥス、お前もか」などと叫べただろうか
・事件後200年もたった、カッシウス・ディオ(155?~235年)の「ローマ史」には、突然「わが子よ、お前もか」と出てくる。
・のちに、シェークスピアが戯曲「ジュリアス・シーザー」を書き、その中の台詞で Et tu Brute(そしてお前もか、ブルートゥス)とした。
・「ブルートゥス、お前もか」というのはシェークスピアの劇の台詞にすぎない。
・3月18日、カエサルの葬儀が市をあげて催され、アントニウスが追悼演説を述べた。
・カエサルの遺言状には、1億セステルティウスに上る私財の大半が市民各個人に遺贈され、庭園は国に寄付されていた。
・遺言状で後継者に指名されたのは、アントニウスではなくカエサルの甥、ガイウス・オクタヴィアヌス(のちのローマ帝国初代皇帝アウグストゥス)だった。
〈第2回三頭政治〉アントニウス、オクタヴィアヌス、レピドゥス
・前43年、カエサルの養子となったオクタヴィアヌスとカエサルの部下のアントニウス、そしてレピドゥスがコンスル級の権限を有する5年任期の「国家再建のための3人委員」に任命され、第2回三頭政治を始めた。
・前42年、マケドニアのフィリッピにおける二度にわたる戦いで、アントニウスとオクタヴィアヌスはカエサルを暗殺したブルートゥスとカッシウス率いる共和政擁護派の軍を破り、ブルートゥスは自殺した。
・前40年、アントニウスはオクタヴィアヌスの姉オクタウィアと結婚した。
・アントニウスはクレオパトラをキリキアのタルソスに呼び寄せる。
アントニウスもクレオパトラの魅力にとりつかれ、アレクサンドリアに同行する。
・前36年、オクタヴィアヌスはアフリカを支配していたレピドゥスを失脚させた。
・前32年、アントニウスはオクタウィアと離縁し、クレオパトラと結婚する。
・前31年、アクティウムの海戦で、オクタヴィアヌスはアントニウスとクレオパトラの連合艦隊を破った。
・クレオパトラ率いるエジプト艦隊は早々に逃亡し、アントニウスは部下を見捨てて、クレオパトラのあとを追った。
・前30年、オクタヴィアヌスはアレクサンドリアを陥落させ、プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、エジプトはローマの属州となる。
・アントニウスは自殺した。
・クレオパトラは39歳で自殺した。毒蛇に胸を噛ませたという伝説が生まれた。