ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

STU48 音楽、歴史 などいろいろ

◎飛行機 12 ライト兄弟 4

2014-01-26 21:19:31 | HKT48 AKB48
◎飛行機 12 ライト兄弟 4

ライト兄弟 飛行機の研究を始める

◎飛行機の研究を始めたものは、ライト兄弟だけではなく、アメリカでは
オクターブ・シャヌートサミュエル・ピアモント・ラングレーがいた

◎1899年、兄ウィルバー・ライトがスミソニアン協会に手紙を出して、これまでの飛行実験についての資料を求めた
 そのなかには、シャヌートの「飛行機械の進歩」やラングレーの「空気力学の実験」、リリエンタールの「飛行の問題と飛行に関する実用的実験」などが含まれていた

 実用的な飛行機になるための基本的な3つの要素は①揚力を得ること②推力を得ること③操縦技術、であるがはじめの2つの問題はある程度まで解決されていた
 ②の動力についてはエンジンとプロペラの組み合わせによって推進が可能であることがわかっていた

 しかし、操縦法には問題があり、ライト兄弟は機体の安定性を保ちながら効果的に操縦する方法を確立することに目を向けた


オクターブ・シャヌート(1832-1910年)

◎シャヌートはもと土木技師で、飛行に関する研究を「飛行機械の進歩」と題する本に著した

・1896年ミシガン湖南岸の砂丘でシャヌートの監督のもと3人の若いパイロットの助手たちによってグライダーの滑空実験が行われた

・最初のグライダーはマルチウイングと呼ばれ、12枚の翼を持っていた
 実験を経るごとに翼の数が減らされて、複葉になったときに10.3秒で71.7mの滑空に成功した
 その後、助手のひとりオーガスタス・ヘリングが14秒、109.5mの滑空に成功したと報告しているが、シャヌートは立ち会っておらず、疑わしい(「ライト兄弟の秘密」原 俊郎著、叢文社)

○1900年5月、兄のウィルバーがシャヌートに初めて手紙を出してアドバイスを求めた
 この時のシャヌートへの質問は、グライダー実験にもっとも適した土地を教えてほしいということだけだった
 ライト兄弟の最初のころのテストグライダーはシャヌートの複葉型のグライダーをモデルにしているという

○シャヌートとライト兄弟の技術的交流はほとんど手紙で行われ、その数は500通とも言われている

 シャヌートはライト兄弟を援助し、師匠的な存在でもあった

 シャヌートはライト兄弟が行なった飛行実験の成果を初めて公式に発表するプレゼンの準備をした
 1901年9.18、シカゴで開催されたウエスタン・エンジニア協会の集まりで何の肩書きも持たない自転車屋のウィルバーが飛行実験について講演した(同上書)


◎飛行機 11 ライト兄弟 3

2014-01-19 19:23:03 | HKT48 AKB48
◎飛行機 11 ライト兄弟 3

「航空工学の父」ジョージ・ケイレイ卿

○ウィルバー・ライトは1867年4月16日に生まれたが、この年の10月14日、日本では第15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還した

○ウィルバーが生まれる94年前の1773年に、「航空工学の父」と呼ばれるジョージ・ケイレイ(イギリス)が貴族の家に生まれた

・ケイレイは19歳のときに、ヘリコプターの模型を飛ばした

○ケイレイははばたき飛行の限界を見抜き、機体の重量を支える主翼と、推進力を得るメカニズムを独立にしなければならないと考え、固定翼のグライダーを設計した(「ライト・フライヤー号の謎」鈴木真二著、技術堂出版および「飛行機物語」鈴木真二著、ちくま学芸文庫より)

○1799年、ケイレイは銀の円盤に固定翼グライダーを彫った
 その銀盤の裏には、飛行機の機体に作用する力を揚力と抵抗に分け、揚力は自重(重力)と釣り合い、推力は抵抗に打ち勝つことが必要であるという、力学的な関係が示されていた(同上書)

○銀盤に彫られたグライダーは尾翼も備えていた

◎ケイレイは翼に作用する空気力を模型によって計測し、その結果を「空中航行について」と題する論文に発表した(1809~1810年)

・ケイレイは揚力と迎え角の関係を導き、適切な迎え角を用いれば飛行に必要な揚力が得られることを示した
・また、翼に反(そ)りを与えれば、平板翼よりも大きな揚力が得られることを示した

◎ケイレイは飛行機に搭載するエンジンの研究も行なったが、当時の蒸気エンジンは大きくて重く動力として使えなかった

○ケイレイは1849年に3葉のグライダーを製作し、10歳の子どもを乗せて傾斜した野原で地上から浮かせることに成功したという
 さらに1853年には、ケイレイの馬車の御者が操縦した単葉のグライダーで斜面を下りながら空中に浮き、約460mほどの飛行に成功したが、世間一般には認められなかった(同上書)


「グライダーの父」オットー・リリエンタール(1848~1896)

・オットー・リリエンタールは1870年にベルリン工業技術大学(現・ベルリン工科大学)を卒業し、1年間の兵役ののち、ベルリン工科大学の機械工房で職を得た

 オットー・リリエンタールは独学で勉強しなければならなかったライト兄弟よりも、力学や数学に通じていた
 オットーと弟のグスタフの兄弟はイギリスの航空協会の会員になり、1874年には反りのある翼の優位性を発見した
 ドイツでは政府により組織された委員会によって、「エンジンを用いた空気よりも重い飛行機は成立しない」という見解が出されていた
 このこともあって、オットーは空気力を測定したデータの公表を1889年までさけた

・1886年にリリエンタール兄弟はドイツの飛行船飛行協会に所属し、1888年には空気力学の実験を再開した
 リリエンタール兄弟の研究結果は「飛行術の基礎としての鳥の飛行」(1889年)と題する本にまとめられた

◎リリエンタール兄弟のデータは、ライト兄弟が1900年にグライダーを設計する際にも使用された

◎オットーは1891年に製作したグライダーで24mの滑空に成功し、人類初の滑空飛行と記録されている
・リリエンタールのグライダーは今でいうハンググライダーで、体を移動させてバランスを取るという方法をとっていた

 リリエンタールのグライダーは18種類作られ、主に単葉機であったが複葉機も設計され、両機種で2000回以上の飛行が行われた


オットー・リリエンタールの墜死

○1896年8月9日、ベルリン郊外のゴレンベルグの丘で、オットーはその日2回目の飛行を行なった
 上昇風が突然機体を失速させ、グライダーは約15mの高さから墜落し、オットーは背骨を折った
 翌日、ベルリンの病院で息を引きとった

・リリエンタールの評価は、当初ドイツ国内では低かったという
 第1次世界大戦が近づき、国民的英雄に祭りあげられ、1914年にようやく国民の基金によって記念碑がつくられた

・オットーの墓石には生前口にしたという「犠牲は払われなければならない」という言葉が刻まれている

オットー・リリエンタールの滑空実験、1896年の墜死はライト兄弟の飛行に関する好奇心を動かした


◎飛行機 10 ライト兄弟 2

2014-01-13 06:48:45 | HKT48 AKB48
◎飛行機 10 ライト兄弟 2

印刷業

・オービルは初等学校の第8学級に在学中、14歳のとき、友人のエド・サインズとともに、サインズ・ライト商会という名前で印刷業を始めた
 おもちゃの印刷機とわずかな活字セット、オービル手彫りの木版、飾り印で、小さいカタログや案内状などの印刷をした
 印刷代金のことで、オービルとエドの意見が対立するようになり、オービルがエドの株を買いとりオービル1人が経営主となり、エドは雇われるということになった

・オービルが16歳のとき、新しい印刷機を自分で作った
 兄のウィルバーが改良すべき点を出して、オービルが改良した

・オービルが17歳のとき(1888年)、兄弟で週間新聞を発行しようということになった
 もっと大きな本格的な印刷機が必要になり設計と製作にとりかかった
 歯車や骨組とする木材、馬車の折りたたみ式屋根の骨、活字を並べるためのテーブルとして使う墓石などを使い印刷機が完成した
 1時間で1500ページ印刷できる素晴らしい印刷機で、評判になった
 他の町から、印刷職人が訪ねてきて、印刷機の下にもぐり込んで調べていたが、出てくると、「ちゃんと動くんだな。でも、どうなっているのかさっぱりわからん」と驚かせた

1889年3月1日に4ページ立ての週刊新聞「ウエストサイドニュース」を創刊した
 オービルが17歳のときのことだった
 発行者はオービルで、ウィルバーは編集者として加わり、発行部数はやがて約500部に達した

○1889年7月4日、母親のスーザン・ライトが結核で亡くなった
 オービルは高校を中退した

○1890年、新聞を日刊紙にして名前を「イブニングアイテム」とした
 しかし、毎日の雑務が大変で、大手の日刊紙には勝てず、3か月で「イブニングアイテム」の発行は打ち切った

○その後、「ライト&ライト印刷所」を始めた

1890年、オットー・リリエンタールがグライダーに乗って滑空実験を始めた

自転車業へ

・当時、自転車が流行しはじめ、兄弟も自転車の魅力にとりつかれた
 自転車をいじっているうちに、機械の構造や働きがわかり修理できるほどになった

1892年、「ライト自転車商会」を開いた
 この時代の自転車はよく壊れたし、兄弟の腕は確かだったので自転車修理の仕事は繁盛した
 最初は自転車の販売、貸し出し、修理をあつかっていたが、やがて中古品の組み直しを始める
 廃物自転車を解体し、その中の使える部品を再利用し、足りない部品は買って完全な自転車に組み立てる
 原価で5ドルぐらいの廃品が、組み直して30ドルぐらいで売れたという

 やがて、新車の製作を始めた
 「バンクリーブ号」と「セントクレア号」という2つのモデルの注文生産を始めた

 
1897年頃、兄弟は新しい興味の対象を見つけ、印刷業の施設をすべてエド・サインズに売り渡し、印刷業から完全に手を引いた


◎HKT48 新チームKⅣ(K4)誕生

2014-01-13 00:01:07 | HKT48 AKB48
◎HKT48 新チームKⅣ(K4)誕生

★HKT48の初のツアー「九州7県ツアー~可愛い子には旅をさせよ~」が1.11より始まり、11日の夜公演で、
これまでは組閣と呼んでいたが、「クラス替え」と銘打って、研究生17名の昇格とともに新チームKⅣ(K4)の新設が発表された

・これまでの旧チームH 15名のメンバーは7名が新チームHに、8名が新チームK4にと半数ずつにうまく振り分けられたように思います

○新チーム体制は春からスタートする予定

○新チームHは旧チームH7名に昇格した研究生9名が加わり16名に
キャプテンは穴井千尋

○新チームK4は旧チームH8名に昇格した研究生8名が加わり16名に
キャプテンは多田愛佳

○指原莉乃は新チームHに

兒玉遥、田島芽瑠は新チームHに

宮脇咲良、朝長美桜は新チームK4に


◎新チームHのセンターは田島芽瑠になる可能性が高い
 もしくは、兒玉遥とダブルセンターか

◎新チームK4のセンターは私的には、さくらちゃんになってほしいが、朝長美桜になるかも知れない
 もしくは、さくらちゃんと美桜ちゃんのダブルセンターか

◎もしくは、両チームとも、今はやりの「この子だれ?」という今は無名の元研究生がセンターに抜擢されるかも知れないと

◎これまではHKT48は1チーム体制だったので、競争する意識は少なかったかも知れないが、2チーム体制になれば、競争して切磋琢磨して、さらに強いHKT48になる


◎咲子さん ピアノ5代目TEPPEN に

2014-01-05 11:22:59 | HKT48 AKB48
◎咲子さん ピアノ5代目TEPPEN に

◎1.4 フジテレビ 21時より、「土曜プレミアム 芸能界特技王決定戦 TEPPEN 2014」が放送され、咲子さんが1人目というプレッシャーを乗り越えて91点の高得点をとりピアノ5代目TEPPENとなった

○出場者5人のトーナメント勝ち抜き戦

○審査委員長 服部克久 40点
 審査員   秦万里子 30点
 審査員   中島啓江 30点
の計100点満点

○1人目 松井咲子(AKB48) 「もう恋なんてしない(槇原敬之)」
91点 服部(36点)秦(26点)中島(29点)

○2人目 脊山麻理子 「HANABI(Mr.Children)」
78点

○3人目 もりぽ(森保まどか HKT48) 「愛をこめて花束を(Superfly)」
87点 服部(34点)秦(25点)中島(28点)

○4人目 いくちゃん(生田絵梨花 乃木坂46) 「そばかす(JUDY AND MARY)」
87点 服部(34点)秦(26点)中島(27点)

○5人目 さゆり 「LA・LA・LA LOVE SONG(久保田利伸)」
86点 服部(33点)秦(25点)中島(28点)

☆もりぽといくちゃんは同点で咲子さんには一歩およばなかったが、さゆりには勝った
AKBグループの3人とさゆりではレベルが違うたい

来年は、もりぽかいくちゃんか、またはアズマリオンか、誰が咲子さんに勝つかな
テクニックではなく、独創性で勝負するしかないと