◎ヴェルサイユ宮殿とプチ・トリアノン
★ヴェルサイユ宮殿はフランス王ルイ14世(太陽王 1638年~1715年)の宮殿
・ヴェルサイユ宮殿はパリの中心部から西方約18kmほど離れたイヴリーヌ県にある
・1979年、世界遺産(文化遺産)に登録された
○ルイ14世は父ルイ13世の狩猟館を宮殿に改築させた
・ヴェルサイユで宮殿建設の工事が始まったのは1661年で建築家ル・ヴォーによって着手された
・ル・ヴォーがなくなったあと、あとを託されたジュール・アルドュアン=マンサールが大幅な拡張を行った
・宮殿がほぼ完成したのは1682年で、ルイ14世は宮廷と政府機関をパリのルーヴル宮からヴェルサイユに移した
・約700室で当時は5000人近い人間が宮殿内で暮らしていたという
・その後も増改築が続けられ、ルイ15世の時代には商工街区、貴族や官僚の居住区などがつくられた
・工事がすべて完了したのは19世紀に入ってからである
◎鏡の間
・1678年に着工された全長73mの部屋で、マンサールの設計による
天井画は画家のル・ブランによる
宮殿の建物2階の西側、庭園に面してつくられた部屋の1つである
外国の特使との接見、式典や舞踏会の会場として使われた
・1919年6月28日、第1次世界大戦の講和条約の調印式がこの「鏡の間」で行われた
それで、この講和条約は通称ヴェルサイユ条約と呼ばれる
1月18日以来、敗戦国のドイツ代表を除外して、フランス外務省で講和会議が開かれてきた
6月28日、ドイツ全権ヘルマン・ミュラー外相が講和条約文書に調印した
「鏡の間」は1871年1月18日、プロイセン国王ヴィルヘルムⅠ世がドイツ第2帝国の皇帝となった即位式が行われた場所でもあった
◎庭園
左右対称の幾何学的な庭園で、設計は造園家アンドレ・ル・ノートルによる
★プチ・トリアノン(小トリアノン)
ヴェルサイユで宮殿から少し離れたところにある離宮の1つで、1775年にルイ16世がマリー・アントワネットにプレゼントした城館である
マリー・アントワネットの私的な空間、お気に入りの場所となり、何日も宮廷に帰らないこともあった
プチ・トリアノンには自然な庭園をつくった
●マリー・アントワネットは1755年11月2日、オーストリアのハプスブルク家の姫としてウイーンで生まれた
1770年5月16日、マリー・アントワネット(14歳)はヴェルサイユ宮殿内のチャペルでフランス王太子ルイ・オーギュスト(15歳)と結婚式をあげた
ルイ16世は裁判にかけられ、死刑と決まり、1793年1月21日、ルイ16世は革命広場(現在のコンコルド広場)で死刑執行された
マリー・アントワネット(37歳)は8月2日、タンブル塔からコンシエルジュリ(革命裁判所付属の監獄)に移送された
マリー・アントワネットは10月14日、15日と裁判にかけられ、死刑と決まった(16日午前4時になっていた)
即日、刑が執行される決まりだったので残された時間はわずかであった
このとき、マリー・アントワネットは白と黒の粗末な服を2着しか持っていなかったという
10月16日、マリー・アントワネットは革命広場で処刑された
37歳11か月だった
◎アモー(小村落)
1783年から4年がかりでアモーという擬似農村をつくった
池のまわりに農家風の家を建てた
外見は質素な造りであったが、内部は壁、床とも大理石張りだった
牛、羊、鷄などの動物も飼われていて、アモーでつくられた牛乳、チーズなどをマリー・アントワネットも連れといっしょに食べていた
マリー・アントワネットはプチ・トリアノンで花をつんだり、池で釣りをしたり、農家の娘のような服を着て、麦藁帽子をかぶって散歩することもあった
◎マリー・アントワネット(24歳)は1780年6月、プチ・トリアノンにパリのオペラ座を小型にしたような劇場をつくった
パリには行きたくなかったのである
パリから劇団を招き、親しい友人だけで観劇し、やがて自分たちで劇を演じるようにもなった
マリー・アントワネット自身も女優として舞台に立った
作曲もし、歌もうたった
プチ・トリアノンはマリー・アントワネットにとって夢のような理想の世界だった
しかしいつまでも夢の世界にはひたっていられなかった(「マリー・アントワネット」安達正勝、中公新書)
★ヴェルサイユ宮殿はフランス王ルイ14世(太陽王 1638年~1715年)の宮殿
・ヴェルサイユ宮殿はパリの中心部から西方約18kmほど離れたイヴリーヌ県にある
・1979年、世界遺産(文化遺産)に登録された
○ルイ14世は父ルイ13世の狩猟館を宮殿に改築させた
・ヴェルサイユで宮殿建設の工事が始まったのは1661年で建築家ル・ヴォーによって着手された
・ル・ヴォーがなくなったあと、あとを託されたジュール・アルドュアン=マンサールが大幅な拡張を行った
・宮殿がほぼ完成したのは1682年で、ルイ14世は宮廷と政府機関をパリのルーヴル宮からヴェルサイユに移した
・約700室で当時は5000人近い人間が宮殿内で暮らしていたという
・その後も増改築が続けられ、ルイ15世の時代には商工街区、貴族や官僚の居住区などがつくられた
・工事がすべて完了したのは19世紀に入ってからである
◎鏡の間
・1678年に着工された全長73mの部屋で、マンサールの設計による
天井画は画家のル・ブランによる
宮殿の建物2階の西側、庭園に面してつくられた部屋の1つである
外国の特使との接見、式典や舞踏会の会場として使われた
・1919年6月28日、第1次世界大戦の講和条約の調印式がこの「鏡の間」で行われた
それで、この講和条約は通称ヴェルサイユ条約と呼ばれる
1月18日以来、敗戦国のドイツ代表を除外して、フランス外務省で講和会議が開かれてきた
6月28日、ドイツ全権ヘルマン・ミュラー外相が講和条約文書に調印した
「鏡の間」は1871年1月18日、プロイセン国王ヴィルヘルムⅠ世がドイツ第2帝国の皇帝となった即位式が行われた場所でもあった
◎庭園
左右対称の幾何学的な庭園で、設計は造園家アンドレ・ル・ノートルによる
★プチ・トリアノン(小トリアノン)
ヴェルサイユで宮殿から少し離れたところにある離宮の1つで、1775年にルイ16世がマリー・アントワネットにプレゼントした城館である
マリー・アントワネットの私的な空間、お気に入りの場所となり、何日も宮廷に帰らないこともあった
プチ・トリアノンには自然な庭園をつくった
●マリー・アントワネットは1755年11月2日、オーストリアのハプスブルク家の姫としてウイーンで生まれた
1770年5月16日、マリー・アントワネット(14歳)はヴェルサイユ宮殿内のチャペルでフランス王太子ルイ・オーギュスト(15歳)と結婚式をあげた
ルイ16世は裁判にかけられ、死刑と決まり、1793年1月21日、ルイ16世は革命広場(現在のコンコルド広場)で死刑執行された
マリー・アントワネット(37歳)は8月2日、タンブル塔からコンシエルジュリ(革命裁判所付属の監獄)に移送された
マリー・アントワネットは10月14日、15日と裁判にかけられ、死刑と決まった(16日午前4時になっていた)
即日、刑が執行される決まりだったので残された時間はわずかであった
このとき、マリー・アントワネットは白と黒の粗末な服を2着しか持っていなかったという
10月16日、マリー・アントワネットは革命広場で処刑された
37歳11か月だった
◎アモー(小村落)
1783年から4年がかりでアモーという擬似農村をつくった
池のまわりに農家風の家を建てた
外見は質素な造りであったが、内部は壁、床とも大理石張りだった
牛、羊、鷄などの動物も飼われていて、アモーでつくられた牛乳、チーズなどをマリー・アントワネットも連れといっしょに食べていた
マリー・アントワネットはプチ・トリアノンで花をつんだり、池で釣りをしたり、農家の娘のような服を着て、麦藁帽子をかぶって散歩することもあった
◎マリー・アントワネット(24歳)は1780年6月、プチ・トリアノンにパリのオペラ座を小型にしたような劇場をつくった
パリには行きたくなかったのである
パリから劇団を招き、親しい友人だけで観劇し、やがて自分たちで劇を演じるようにもなった
マリー・アントワネット自身も女優として舞台に立った
作曲もし、歌もうたった
プチ・トリアノンはマリー・アントワネットにとって夢のような理想の世界だった
しかしいつまでも夢の世界にはひたっていられなかった(「マリー・アントワネット」安達正勝、中公新書)