◎ガリレオ・ガリレイ (3)
★ピサ大学教授時代
「運動について」は1591年から1592年に完成されたらしい
ガリレオは伝記作家ヴィヴィアーニの伝える「ピサの斜塔」からの落体の公開実験はしていないらしい
★パドヴァ大学教授時代の科学上の業績
○1593年~1599年までに
「簡単な軍事技術入門」「天球論あるいは宇宙誌」「築城論」「機械学」を書く
これらは私的教授のために書かれた
●「幾何学および軍事用コンパス」を製作
すでにあったものを改良した一種の計算尺で1597年ころ完成した
2本の板をちょうつがいで結合したもので、板の表面にはさまざまなルールにしたがって線が刻まれていて、大砲の仰角の測定、大砲の口径と金属の弾丸の材質が与えられたとき相当する火薬量を決定、などの用途があった
また、与えられた長さの線上に正多角形を作図するためのスケール、正多角形あるいは円と正方形の面積を等しくするためのスケールも加えられていた
1605年の夏、ガリレオはコジモ・デ・メディチの専任教師としてフィレンツェで過ごし、彼にこの計算尺を贈った
ガリレオは1606年に、この「幾何学および軍事用コンパス」の使用法を説明した手引書を出版し、コジモ・デ・メディチに献呈した
●新星の出現 1604年10月
・1604年10月10日、パドヴァで、バルデッサー・カプラ、シモン・マイル、彼らの友人たちが「新星」を初めて見た(今日では、これは、へびつかい座にあらわれた超新星として知られている)
アリストテレスの教えによれば、天界(月より上の世界)は完全で不変だったから、いかなる変化も生じるはずがなかった
天界に新しい星が出現することは、天界が変化することであり、アリストテレス学徒の宇宙観をゆるがす脅威であった
観測の報告を受け取ったガリレオは、新しい星は月よりはるかに遠いことを知った
新しい星の視差は月よりもはるかに小さい(視差が見出せない)ことから、新しい星は月よりもずっと遠くにあることを示していた
視差とは、ある天体を2地点から見たときの方向の差で、地球上の2点A、Bから天体Pを見たとき、∠APBが視差となる
★望遠鏡の製作(1609年)
「およそ10カ月ほどまえ、あるオランダ人が一種の眼鏡を製作した、という噂を耳にした。それを使えば、対象が観測者の眼からずっと離れているのに近くにあるようにはっきりみえる、ということだった。実際に眼でみてその驚くべき効果を確かめた、というひともあった。信ずるひともあれば、否定するひともあった。数日たって、わたしはフランスの貴族ジャック・バドゥヴェールがパリからよこした手紙を受取り、その噂が事実であるのを確かめた。そこで、ついに自分でも思いたって、同種の器械を発明できるように、原理をみつけだし手段を工夫することに没頭した。それからほどなく、屈折理論にもとづいてそれを発見したのである。まず鉛の筒を用意し、その両端に2枚のレンズを取りつけた。レンズの片面は2枚とも平らで、他の面は1枚は凸、1枚は凹である。そこで凹面に眼を近づけると、対象はずいぶん大きく近くにあるように感ぜられた。肉眼でみるより3倍も近くに、9倍も大きくみえたのである。その後、わたしは対象が60倍以上の大きさにみえる、いっそう正確な筒眼鏡をつくった。」(「星界の報告」ガリレオ・ガリレイ著、山田慶児、谷 泰訳、岩波文庫)
・ガリレオが望遠鏡について初めて聞いたのは1609年7月にヴェネツィアを訪問していたときだった
オランダの眼鏡製作者ハンス・リッペルスハイが望遠鏡の特許を申請したが、特許は認められなかった
○光学望遠鏡
光学望遠鏡は屈折望遠鏡(レンズを用いる)と反射望遠鏡(凹面鏡を用いる)の2種類に大別できる
屈折望遠鏡には、ガリレイ式望遠鏡とケプラー式望遠鏡がある
・ガリレイ式望遠鏡
対物レンズが凸レンズ、接眼レンズが凹レンズで、正立像がえられる
軍事用として地上の物体を見るのには、正立像のほうが都合がいい
・ケプラー式望遠鏡
対物レンズが凸レンズ、接眼レンズが凸レンズで、倒立像がえられる
ケプラー式のほうが視野も広く、倍率も大きくすることができるので、現在小型の天体望遠鏡として一般に用いられているのは、ケプラー式である
大型の天体望遠鏡はほとんどが反射望遠鏡である
○ガリレオが最初に作った望遠鏡の倍率は3倍ほどだったが、8月中ごろには約9倍の望遠鏡を作った
さらに11月末ごろには約20倍の望遠鏡を作ることに成功した
「星界の報告」の天体観測には、約20倍の望遠鏡を使用したようである
ちょっと脱線して
○望遠鏡の日本への渡来について
1613年5月5日、イギリス東インド会社の艦隊が肥前(長崎)の平戸に上陸した
イギリス軍艦クローブ号艦長ジョン・セリスはウィリアム・アダムズに伴われて駿府(静岡)の徳川家康に謁見した(8月4日)
セリスはイギリス王ジェームズ1世の国書を提出して日本との通商を求めた
その際の献上品のなかに「長一間之靉靆(あいたい)」があった(「通航一覧」第252巻)
靉靆(あいたい)とはめがねを意味する言葉で、長さ1間(1.8m)で6里(約24km)離れたところまで見えたとあった
この金銀で装飾されていたという豪華な望遠鏡は現存していない
以後はオランダ商館を通したりして輸入された
徳川吉宗は長崎の御用眼鏡師、森仁左衛門正勝(1673-1754)に天体観測用の望遠鏡を作らせた
大坂の岩崎善兵衛(1756-1811)は「窮天鏡(きてんきょう)」と名づけた屈折望遠鏡を製作した(1793年)
岩崎善兵衛は1793年7月20日、京都の医師、橘南谿(なんけい)宅で天体観望会を開いた
月面や木星、土星、天の川を岩崎善兵衛製作の望遠鏡でのぞいたという
長浜の国友村の鉄砲鍛冶で発明家の国友一貫斎藤兵衛は天保年間(1830-44)に高度な反射望遠鏡(倍率は約50倍)を製作し、13か月間158日におよぶ太陽黒点の観測を行なった
望遠鏡は「遠眼鏡(とおめがね)」、「星眼鏡」とも呼ばれた
私は望遠鏡より、星眼鏡(ほしめがね)と言ったほうがロマンチックなひびきがあっていいと思います