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◎ガリレオ・ガリレイ (1)

2016-03-15 22:05:36 | 物理
ガリレオ・ガリレイ (1)

★~ピサ大学教授時代

・ガリレオ・ガリレイは、1564年2月15日、トスカナ大公領内のピサで生まれた
 シェイクスピアが生まれたのと同じ年である

○16世紀のイタリア半島

・16世紀、イタリア半島の北西部分はトスカナで、フィレンツェ、シエナ、ピサを含む
 トスカナの東と南は教皇が支配する教皇領で、ローマ、ボローニャを含む
 教皇領の南はナポリ王国で、スペインに支配されていた
 トスカナの北と西はミラノ大公が支配していた
 ミラノの東は、ヴェネツィア共和国


・ガリレオの父ヴィンチェンツィオ・ガリレイはフィレンツェの市民階級の出身で、ピサに住んでいた1562年(42歳)に、ジュリア・アマナティ(24歳)と結婚した
 彼らの最初の子どもがガリレオである

・ガリレオが8歳のとき、叔父と叔母に預けられて、両親はフィレンツェに戻った
 1574年、10歳のときに、フィレンツェに帰って両親の元にもどった

・ガリレオはフィレンツェで基本的な教育を受けたあと、フィレンツェ郊外のヴァロンブローサの聖マリア修道院でラテン語の古典を学んだ
・15歳のとき、ガリレオは修道院から連れ出され、2年後の1581年9月にガリレオはピサに戻った
・1581年9月5日、ガリレオはピサ大学の医学部に入るため、教養課程にあたる「技芸課程」に登録した
 当時のすべての学生は、アリストテレスの著作を読まなければならなかったという
 アリストテレスの考えを、検証することもなく、そのまま講義されていたのである
 ガリレオはアリストテレスの考えをそのまま受け入れることを拒否した

・父ヴィンチェンツィオの知り合いにトスカナ宮廷付き数学者、オスティリオ・リッチがいた
 リッチはまた、フィレンツェの高等工芸学校ともいうべき、アカデミア・デル・ディセニォーの数学の教授でもあった
 ガリレオはリッチを訪ね、エウクレイデスの幾何学と出会い、その論理に感銘を受けた
 ガリレオは数学の勉強を続け、また、リッチからアルキメデスの著作を紹介された
・1585年、ガリレオは最終試験を受けることなく、学位をとらずに大学をあとにした

ピサ大学の数学教授

・1589年、ガリレオはピサ大学の数学教授となった
 年俸は60フローリンで、45名の同僚の平均が200フローリンだった
 ガリレオが教えるのは、旧式の、エウクレイデスの幾何学プトレマイオスの天文学(「アルマゲスト」の原理の注釈)だった
 当時はコペルニクスの地動説に関心をもっていたことを示すものはない

○ガリレオは地上における運動の問題天上における運動の問題を生涯かけて解こうとした

・ガリレオにいたるまで、地上における運動と天上における運動は同一の法則に従っているとは考えられていなかった
 月より下の世界が地上の世界で、月より上の世界が天上の世界で、まったく別個の質的に違ったものと考えられていた
 地上界の物質は、土、水、空気、火の4元素でできていて、天上界の元素は第5元素エーテルであると考えられていた
 天上界の運動について、大学でスコラ学者はアリストテレスのいうことをそのまま講義していたのである
 天上界は、月が地球に近い一番下で、その上に水星、金星、太陽、火星、木星、土星、多くの恒星が層をなしていて、惑星、恒星、天球はエーテルでできていた


地上における運動の問題

アリストテレスは重い物体のほうが軽い物体よりも速く落ちると論じた

 ガリレオはこれに疑問を抱き、物体が落ちる速度に違いがあることは認めたが、これは空気抵抗によるものだと考えた

 ガリレオは、密度の低い物体は密度の高い物体よりもゆっくりと空気中を落ちると述べた
 さらに、もし空気がなければ、すべての物体は同じ速さで落ちると主張した

 このことは、月面に着陸したアポロ15号のデイヴィッド・R・スコット船長が、1971年8月2日に行った実験によって証明された
 スコット船長はハンマー(1.32kg)と羽を両手に持ち、同時に手を離すと、ゆっくり落ちていって同時に月面に落下した(その様子はテレビで生中継された)