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おっちゃんの世界史の栞 30 (5)朝鮮の歴史 古代朝鮮 4 新羅

2011-07-10 16:50:58 | HKT48 AKB48
(5)朝鮮の歴史 古代朝鮮 4 新羅

・新羅は、紀元前1世紀ごろ、朝鮮半島東南部の慶州平野を中心に発展した辰韓12小国の一つ斯盧国から始まった

★朴・昔・金3姓の始祖説話

◎新羅の建国神話・朴赫居世(パクヒョッコセ)説話

・慶州盆地に6つの村があった
・それぞれの村では聖地や聖山へ村長の始祖が天から降臨してきた
・前69年3月に、6村の村長たちが集まって君主を迎え国を建てようと相談した
・蘿井のほとりで馬がいなないているので行ってみると、1個の卵があった
・その卵を割くと、童子があらわれた
・13歳になると、君主となり、ひさご(パク)のような大卵から生まれたので、朴(パク)を姓としたという(紀元前57年)

・第4代の王となった脱解(タレ)王は、初め卵から生まれ、箱のなかに入れられて海上を漂流し、発見された。漂っているときに鵲が付き従っていたので、鵲の字の片方をとって昔(ソク)を姓とし、箱を解いてでてきたので脱解と名づけられ、第2代の南解王の娘婿となって、のちに即位したという

・閼智(アルチ)は、紫雲とともに天から鶏林に降った金の箱のなかから童子として発見された。聡明で知略に優れているので閼智(知恵者の意)と名づけられ、金の箱からあらわれたので金(キム)を姓としたという

・閼智の子孫 味鄒(ミチュ)王は金姓として始めて王位についた(第13代)

・第17代の奈勿(ナムル)王以後は、金氏が連続して王位についた


★新羅の台頭

・500年に即位した、第22代の王 智証(チジョン)麻立干(当時の王号)は、それまで定まらなかった国号や王号を、正式に新羅と定め、麻立干から国王に変えたという

・第23代 法興(ポップン)王は514年に即位し、軍事を司る兵部(ピョンブ)を設置し、新羅領域内に、法憧(ポプタン)軍団を配備した

・ついで最高官の上大等(サンデドゥン)の制度を定めた
・上大等は有力者(大等)層のなかから実力者1人を選び、国事を総轄する職で、王のまわりに権力を集中し、王を補佐するものであった

・527年、仏教を公認した

・540年に即位した真興(チヌン)王(第24代)の代に花郎(ファラン)制度が整備された

◎花郎

・学識があり、容姿端麗な上級貴族階級の青年男子を「花郎」として推戴した
・花郎をリーダーとして、その下に花郎徒として青年男子の集団を組織した
・花郎は新羅末までに、200人ほど、花郎徒は数百から1000人を超えたとされる

・人材を発掘するために、若者たちの組織がつくられ、そのリーダーを最初は「源花(ウオヌワ)」といい、美しい2人の娘を選んで据えた
・2人の源花、南毛(ナムモ)と俊貞(チュンジョン)の嫉妬心が強く、事件が起り、俊貞が南毛を殺し、その罪で俊貞も殺され、源花の制度は廃止され、代って男子の花郎が登場する

・文・武・芸を兼備した花郎は、まさに新羅の花形で、正装は女装であった。
・花郎が剣を抜けば、国を守るために命を捨てて戦う戦士となる

・王族の金春秋(キムチュンヂュ)と名将 金庾信(キムユシン)も花郎であった

★善徳(ソンドク)女王(第27代)

・第26代真平(チンピョン)王の次女で、新羅初の女王となる
・生前の名前は、徳曼(トンマン)
・ドラマでは、宮中を追われた設定になっているが、実際は宮中育ちで、幼い頃から頭脳明晰で、王の風格を持ち合わせていたという
・善徳女王のドラマに登場する美室(ミシル)は正史「三国史記」には記録されることのなかった人物で、史書「花郎世記」にのみ登場する
・ドラマ「善徳女王」は「花郎世記」に依って作られた


・647年に上大等の?曇(ビダム)が善徳女王の廃位を主張して反乱を起こした
・乱中に善徳女王は死去したが、金春秋と金庾信は反乱を鎮圧し、真徳(チンドク)女王を擁立した
・金春秋は654年に武烈(ムヨル)王として即位する(第29代)


★百済・高句麗の滅亡と新羅の三国統一

・655年高句麗・百済は連合して新羅の北境に侵攻し30余城を奪取した
・新羅は唐に援軍を求めると、唐の高宗は遼東地方の高句麗領を攻撃した
・新羅は百済の執拗な攻撃にあったために、唐にたいして百済征討を要請した
・660年に唐は水陸10万の軍を百済に向けて出陣させた
・武烈王も金庾信らと5万の軍とともに百済の泗沘城に向かい、新羅軍は黄山の原で百済軍を破った
・唐と新羅の連合軍は泗沘城を攻略し、百済は滅亡した(660年)
・663年、唐と新羅の連合軍は白江(白村江)で百済復興軍・倭軍を破った
・668年、新羅は唐と連合して高句麗を滅ぼした
・唐は新羅に鶏林大都監府を置き、半島を支配しようとしたが、新羅は抵抗した
・676年に唐は半島内に設置した都監府をすべて廃止し、新羅の征討を放棄した
・新羅は唐の勢力を朝鮮半島から排除すると、684年、益山の報徳国を滅ぼし三国統一を完成した

★新羅の衰退と高麗の朝鮮半島再統一

・10世紀になると、地方豪族たちの反乱があいつぎ、「将軍」「城主」と称して武装した勢力が各地に割拠した
・900年には甄萱(キョノン)が後百済を、901年には弓裔(クンイェ)が後高句麗を建て、
朝鮮半島は新羅、後百済、後高句麗が覇権を争う「後三国時代」の乱世を迎える
・弓裔の武将、王建(ワンゴン)は918年に弓裔を倒して王となり、高麗(コリョ)を建国した
・935年、新羅の敬順王が高麗に降り、新羅は滅亡した
・高麗は、936年、後百済を滅ぼし朝鮮半島を再統一した

◎白村江の戦い(663年)

・白村江の戦いは、日本がはじめて経験した本格的な対外海戦である
・百済は、唐と新羅の連合軍に滅ぼされたが、百済の遺臣たちは、鬼室福信を中心に反撃に転じた
・福信は、日本に援軍を求め、中大兄皇子は百済への援軍派遣を決めた
・661年、中大兄皇子は百済の王子豊璋とともに阿部比羅夫を総大将にした5000名の護衛船団170隻を百済へ派遣した
・阿部比羅夫は福信と合流し、豊璋は百済王として擁立された
・663年、中大兄皇子は400隻の大船団を編成し、1万余名の救援船団を再び百済へ送った

・唐艦隊170隻は白村江を封鎖した
・その10日後に日本から派遣された救援艦隊が白村江に姿を現した
・唐艦隊は左右に翼を広げる、鶴翼の陣に陣形を組み日本艦隊を待ち受けた
・日本艦隊には、一元的な指揮系統がなく、各艦が思い思いの行動をするばかりだった
・日本の艦船は軍船ではなく、白兵戦を想定した輸送船にすぎず、唐艦隊には及ばなかった
・唐軍は、突入してくる日本艦隊を、左右からはさみこんで集中攻撃を加えて各個撃破していった
・日本艦隊は統制がとれないまま混乱に陥り、唐艦隊は甲板上から火矢を放って日本艦を焼き払い、体当たりで沈没させ、日本艦隊は壊滅した
・豊璋は、戦場から逃げ出し高句麗方面へ逃亡してしまった
・日本は白村江の戦いで完敗を喫し、それ以降、朝鮮半島への進出は見送られた
・大宰府や博多湾に水城を築き、対馬に防人を置いて防備体制を固めたが、唐・新羅連合軍の標的が高句麗に移ったため、日本の外敵による襲来の恐怖は去った
・日本は8世紀に入って唐との国交を回復し、894年に遣唐使が廃止されるまで両国は友好的な関係を築いた
・遣唐使は廃止されたが、民間の貿易、通交は以後も続いた