ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

STU48 音楽、歴史 などいろいろ

◎HKT48全国ツアー 名古屋

2015-02-15 21:57:28 | HKT48 AKB48
HKT48全国ツアー 名古屋

HKT48全国ツアー 名古屋国際会議場センチュリーホール

・昼の部(14時開演)に行きました
 当選したものの、私は席運がないのか、1階の最後列の席でした

 3.14のフェスティバルホールは落選するし
 写メ会も、落選
 4月の個別も落選

 落選つづきでテンションがさがっています

・双眼鏡を持っていきましたので、ときどきメンバーを確認しました
 見えにくかったけど、さくちゃんのいるところだけは、すぐわかりましたよ
 「不器用太陽」はよかった
 名古屋だけにSKEの曲が多かったね

 期待していた「彼女」が入ってなくて、残念やった

 ダンスと舞台のバックスクリーンとの演出はよかった
 今までにない大掛かりなもので、迫力がありました

またHKTのコンサートに行きたいけど、次は当選したい

◎マジすか学園4 第5話 少しネタバレ

2015-02-10 22:33:12 | ドラマ
マジすか学園4 第5話 少しネタバレ

マジックとの闘い

・今回はかなり不利な状況(体勢)に追い込まれたけど…
 すごい力
 バカモノ以上かも知れない

ソルトがさくらに弱点を指摘し、アドバイスする?シーンがあり
 すぐに弱点を見抜くとは、ソルト恐るべし

・次回は「おたべ」が出てくるか、激尾古の2人が出てくるか?


○さくちゃんはすでにクランクアップしたということで

 シフォンケーキとか作る時間ができてよかったですね

 洋服も買いに行けますね

 女子力をアップだ

◎ディドロと百科全書 2

2015-02-09 22:46:32 | 歴史 本
ディドロと百科全書 2

ディドロ(1713~1784)

ドニ・ディドロは1713年10月5日、フランスのシャンパーニュ州(現オート=マルヌ県)のラングルで生まれた
 ラングルは城壁に囲まれた、刃物製造業で有名な町である
 ディドロ家は職人の家系で、父のディディエ・ディドロは刃物作りの親方だった
 とくに外科用器具の製作にすぐれていた
 母アンジェリク・ヴィニュロンはなめし革業者の娘で、長男はすぐに亡くなり、ドニは第2子である

○幼少年期~
・読み、書き、算術の初等教育は両親のもとで受けたと思われる
・10歳(1723年11月)のときラングルにあるイエズズ会の経営するコレージュ(日本の中学校に相当)に入学し、ギリシア・ラテンの古典語・古典文学の教育を受けた
 成績は優秀だった
 ラテン語の詩作とラテン文翻訳で2等の成績をとったときの賞品はクラッセ神父著「日本教会史」だった
 一方で、パチンコを使った石の当てっこや戦争ごっこなどいろいろな遊びをしていた

・1728年の秋、あるいは翌年の初頭、15歳のドニは父親に伴われてパリに行き、コレージュ上級学年(日本の高等学校と大学教養課程に相当)に入学する
 入学したコレージュに関しては、コレージュ・ルイ・ル・グラン説、コレージュ・ダルクール説、両校に順次在学したとする説など諸説がある
 1732年9月2日、ディドロはパリ大学から「教養課程修了者」の資格を与えられた
 中世からフランス革命にいたるまで、パリ大学の一般教養課程の教育はコレージュで実施されていた

○1732年~1739年(19歳~26歳)
・パリ大学神学部で神学博士号を得るために神学の学習
 同時にギリシア語、ラテン語、ヘブライ語、数学を学習

・1736年(23歳)ラングル出身の刃物師フークーの家に泊めてもらって借金をする
フークーに借金を払ったのはディドロの父親だった

○1739年~1742年(26歳~29歳)
・数学の出張個人教授
 徴税請負人ランドン家で住み込みの家庭教師をしてランドンの息子に教えた(3か月)
 数学の出張個人教授
 クレマン・ド・リの法律事務所での代訴人見習い(2年間)
 しかしディドロの関心は代訴人の実務よりも古代語と近代語(英語、イタリア語)と数学の学習に向けられていた
 数学の出張個人教授

○演劇
・当時、ディドロは演劇に情熱を傾けていた
 数学者、演劇関係、文学関係、画家、版画家たちとの交友があった

アンヌ=トワネット(略称アントワネット)・シャンピオンとの出会い(1741年 28歳)

・1741年、ディドロはラングルの家族にサン=シュルピス神学校に入学したいと伝え、母親は寄宿舎入りに備えて衣類一式を送った
 ところが、大きくなったディドロには小さすぎて着られず、ディドロが下着類一式の仕立て直しに訪れたのが、シャンピオン母娘だった
 シャンピオン夫人は1726年からレースと下着の小売商を始めており、娘アントワネットは修道院を出ると仕事を手伝うことになる
 ディドロと出会ったとき、アントワネットは31歳だった
 ディドロは仕立て直しを口実に「週3、4回」訪問し、ついには「毎晩」になる
 ディドロはアントワネットとの結婚を決意した

 1742年12月7日、ディドロは父から結婚の許可を得るためにラングルに旅立った
 1743年1月初め、結婚の意志を父親に打ち明ける
 ディドロは結婚の許可と同時に、父親から財産の分け前として年金を要求した
 話がこじれてディドロは父親に暴力行為を及ぼそうとしたらしく、父親はディドロをトロワの近くの修道院に監禁した

 18世紀のフランスでは、30歳未満の男子が父親の許可なく結婚した場合、父親は息子の財産の相続権を剥奪することができたし、息子が父親の意志に反して結婚を断念しない場合は、父親は息子を僧院、城、牢獄等に無期限に監禁する権利ももっていた

 ディドロは修道院から脱走し、パリにたどり着いた
 アントワネットは二度とディドロに会うまいと決心したが、ディドロが病気になり、看病するひともなく、汚い部屋で寝ているとの情報が入る
 アントワネットの決心はくずれ、ディドロの部屋を訪れるとその場で結婚の約束をしてしまったという
 1743年10月26日、ディドロはアントワネットとの結婚契約書に署名する
 11月6日、サン=ピエール=オ=ブフ教会で結婚式をあげた

ジャン=ジャック・ルソーと知り合う(1742年)
・1742年秋、ディドロはコーヒー店ラ・レジャンスで友人のダニエル・ロガンからスイスの青年ジャン=ジャック・ルソーに紹介され、友人となった
 ディドロはこの頃、ルソーとしばしばチェスの勝負をした

◎ディドロと百科全書 1

2015-02-07 22:23:36 | 歴史 本
ディドロと百科全書 1

◎もとより、「百科全書」全体について私ひとりにはとても手に負えませんが

以下、「ディドロと百科全書」については、主に
・「ディドロ」人類の知的遺産 41、中川久定、講談社
・デュラント世界の歴史 28、日本ブック・クラブ
・「百科全書」桑原武夫訳編、岩波文庫
・『百科全書』と世界図絵、鷲見洋一、岩波書店
などによります

★1750年11月に「百科全書」の全体の計画と予約の条件を印刷した「趣意書」が配布された

 「百科全書」は予約購読制で、ディドロダランベールの共同編集によって、本巻8巻、図版2巻(約600点)で完結する予定だった
 結局、本巻17巻、図版11巻が1751年~1772年に、補巻4巻、図版1巻、索引2巻がマルモンテルの編集によって1776年~1780年に発行された

・教養があり、富裕な人たちにしか購入できない高額なものだった(おそらく現在の価格にして数百万円?)

○大きさは2つ折り版(40cm×25cm)で、本巻はそれぞれ約1000ページで、左右2段組で各74行であった
 項目はアルファベット順で、本巻17巻の収録総項目数は約60600項目、21巻あわせて400字詰原稿用紙約14万枚、図版は約3000点という膨大なものである

○題名は「百科全書、あるいは科学・技芸・工芸の合理的辞典」文筆家集団著

学問の分類(ディドロとダランベールの「人間知識の系統図」)

○ディドロたちは学問の分類の総覧として「人間知識の系統図」という表を第1巻の冒頭近くに折り込みの形でしめした

・最も根源には「悟性(知性)」を置いている
 知性、人間の精神能力の3つの機能「記憶」「理性」「想像(力)」を考え

 「記憶」がつかさどる分野として「歴史」
 「理性」がつかさどる分野として「哲学」
 「想像」がつかさどる分野として「芸術」
 を配した

○ここでの「歴史」、「哲学」、「芸術」は現在の意味より広い意味を含んでいる
それぞれが含む内容は大まかには

・「歴史」の内容
 神、教会の歴史
 人間の歴史
 博物誌
 自然の利用(技術、技能、手工業生産)

・「哲学」の内容
 一般形而上学
 神学、宗教
 占い
 心理学
 論理学
 文法
 倫理学
 法学
 数学
 物理学
 天文学
 医学
 動物学
 植物学
 化学
など

・「芸術」の内容
 詩
 音楽
 絵画
 彫刻
 建築
など