daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯

2014年09月09日 | 俳人 - 鑑賞
天才・杉田久女の俳句は何べん口ずさんでも飽きない
この句には二人の人物名が入っている
虚子は久女の師であり、久女を晒しものにした人物

近代俳句の祖・正岡子規の教えに忠実だった久女で
高浜虚子は子規の直弟子で子規俳句をよく知る人物
理屈からは子規に忠実な孫弟子・久女を責められない

虚子はなぜ久女を遠ざけ苛めたか、常識的には分る
常識的には虚子の心情を理解しつつそれでも思う
「あなた、子規の後継者だろ? 久女の師匠だろ?」

それよりも、この句を引合いに出した訳が私には大事
正岡子規は写生俳句の発案者・提唱者といえるだろう
写生俳句といっても当然、俳人ごとの差異は生じる

ここでは子規の思想を客観写生というに留めたい
主観で詠むのでなく、対象を客観的に捉える
その対象を写生するように一句に仕立てることになる

対象は鑑賞する人ごとに捉えかたは異なって当然で
それで出来あがった句は詠み人ごとに異なる訳で
芭蕉の「古池の句」が客観写生と言えるだろう

ところで久女はあろうことか師・虚子を詠んだ
客観写生して虚子を怒らせてしまった
怒った虚子も師匠らしくなく大人らしくもない

師匠だけでなく、弟子「かな女」も詠み込まれている
久女も「かな女を詠んではいない」と言えない
巧いこと「虚子は嫌いかな」という遊びが入った句

いずれにしても分りやすい仕立ての句になっている
久女の遊び心といって笑っていられるのは部外者で
結社・ホトトギスで遊ばれては虚子の面目が立たない

私は虚子も久女も分るからどちらも非難しない
久女はホトトギスを出るべきだったとだけ言える
ともあれ、この句は客観写生に違いない

その意味から私はこの文をモノしただけなのです
いろいろの想像を掻き立てられて飽きることない秀句
ともあれ人を題材に詠むのは要注意ってことですね。

単帯が夏の季語になったのはイメージ的なもので
夏に限った使いかたをする訳ではないようです
浴衣に単帯で祇園祭とか好いモノでしょうね。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。