心を込めて

心の庵「偶垂ら庵」
ありのままを吐き出して 私の物語を紡ぎ直す

自分ではないものになろうとしてきた

2022-11-01 10:36:01 | 新しい心持へ

 

自分ではないものになろうと努力してきた、必要とされる事を必要としてきた。価値の低い自分だから価値の低い扱いを自ら受け入れていた。私にとっては家族に「お前が悪い」と言われればそれが真実だった、婚家で「この家が上手くいかないのは嫁であるあなたのせい」と言われ反発しつつも上手くできない自分に罪悪感を抱いてきた。上手くできたとしても「自分は偽善者だ」という意識が常にあった。

ずっとモヤモヤしてきた、自分でありながら自分でないような、人と接する時には常に小さな怒りがあった。相手の望む私になる、しかし本心は「やりたくない」でもやらなくてはならない。これは多分、封印してきた私の真実の声。「なにか違う」という違和感の核は私の自尊心であり心の灯だったのだと思う。

他人の言動に「必ず」従わなくちゃいけないという事は無いのだ、相手の意に添わなくても自分には価値があるのだから。責任転嫁された相手の課題を当然のように受け入れていた、無実の罪悪感を受け入れてきたことに気づいてしまった。

何故そんな風に思い込んでいたのか、それは多分、自分で考えることを放棄してきたから、放棄しなければ肉体的にも精神的にも暴力を受けてきたからだと感じている。

尊重されてきたであろう大多数の知り合いや夫は、何故そんな怒りを抱えているのかと驚く。「嫌だったらしなければいいじゃない」という事らしい、それができたらこんなに何十年も苦しみはしないのだが。根本で虐待を受けた人間とそうでない人間との隔絶を感じる、なぜそんなに「自分であることへの自信ががある」のか理解できないでいる。私には庇護者への信頼と自分への信頼感が薄いのだ、常に不安でたまらない。

まだ堀下げが必要な部分、私の奥底から聞こえてくるささやかな声を頼りにまた進む。私自身が問題解決のカギを握る、なりたい自分になるために自分を信じる、心の灯を消したくないから。

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依存症を治すために頑張れ私

2022-10-30 12:30:42 | 新しい心持へ

 

「他者への依存も依存症の一種なんだ」というのは大きな発見で、個人的な感想ではあるのだけど実感として腑に落ちた。

以前、人間ドックで血液検査に引っ掛かっかり栄養指導を受けた時の「何故食べるのか」に向き合った時と似ていた。嗜好品は食べなくても栄養に問題はないのに「悪影響があるとわかっていて何故止められないのか」、そこに依存があったのだと気付いた時は衝撃だった。寂しさや怒りや苦しさを誤魔化す為に食べていた食事を見直し、長期的な目標を掲げてスモールステップで食事を見直し結果を出せた。

「なぜ他者依存をするのか」に気付けたのだから、きっと同じ様に結果を出せると思う。寂しい苦しいイライラした時に他者に依存して肯定や安心感を得ようとしていたのなら、そんな心持の時に「(他者を使う前に)自分で自己を肯定して」安心すればいいのだ。自分に「いい依存」をする分には誰の迷惑にもならないのだから。

他者依存には悪影響がある。菓子や酒などの物質とは違い対象自体がコントロールできないものだ、そして依存はエスカレートする。コントロールできない他者と未熟な自分とで、対人関係に困難を抱えて結果的に苦しくなるのは当然だ。過剰摂取した結果肥満や肝硬変など身体の病気になるように、心が病気になるのだ。

強く心をもって他者依存に取り組もうと思う。「他人がどうであっても気にしない」「自分は自分」そんな当たり前の事に今やっと取り組もうとしている。頑張れ私。

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他者依存して誤魔化してきたもの

2022-10-29 15:53:48 | 新しい心持へ

 

「母親から嫌われているという事実から目を背けたかった」

だから小さな棘に気が付かない振りをした

私はずっと母親に認めてほしかった

嫌われている自分を認めたくなかった

だから「他人からの評価に依存した」のだ

「自己ではなく他者」を「行動や生き方を決める軸」にしたのだ

最初は母の嫌う私を封印し母が認める私でいようとした、その後はクラスメイトの認める私、先生が認める私とエスカレートし、最終的には「誰もが認める私」になろうとした。誰からも認められることは土台無理なことだったのに。

新たな気付きは「ああそうだったのかと」新しい心持になり、そして意識の下にまた潜っていった。夫には何度も同じことを言っていると言われたが、新たな側面での気づきは新鮮で、こうして一つづつインプットしていかないと定着しない自分なんだなと思い至る。

心の整理はまだまだ必要で、自分を知り他者を知り、しなやかな思考でそして希望をもって進む、そう決めたから、自分のために。

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わかってほしい気持ちは依存だった

2022-10-29 14:43:13 | 新しい心持へ

 

私の中の「わかってほしいという欲求」の衝動は激しかった。ずっと心の奥底に脈打ち、不安で苦しくて堪らなかった。

私を見てほしい、私を蔑ろにしないでほしい、私を無視しないでほしい、私を大事にして、私の話を熱心に聞いてほしい。

物心ついてから苦しさを抱え続けて生きてきた、学生時代も社会人になってからも、結婚してからも。

東日本大震災をきっかけに自分の中の綻びが表面化し、6年経って自分に向き合い始め、心療内科に通いカウンセリングを受け、民間のカウンセラーのセッション、民間団体の心理セミナーを受講したり心理についての通信教育を受けたりもした、その後は本や各種情報の媒体を利用して学びを深めてきた。大学で学ぶという手段も考えたが、私は今は「ピンポイントな自分の悩み」の正体を知りたかった。

心の中というものは言語化しがたく「個人的な悩み」と言われてしまえばそれまでだった、私が過去に受けた教育では「我慢」「努力」が最良の手段だったが、現在抱えている苦しみは我慢では解決するようには思えなかった。

もしかしたら「私の知りえていない世界があるのかもしれない」そう感じて苦しい道のりをたどってきた。答えは度し難いこの欲求の先にあると感じている、その答えがおぼろげながら見えてきた気がする。

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世界が変わる

2022-09-24 23:14:47 | 新しい心持へ

父や母、舅や姑、義理姉、嫌みな先輩、悪意を向けてきた人、グループで私のネガティブキャンペーンをしてくる人達の、理由があるようで無い嫌み、価値を下げてくるようなちくりとした文句、これまで何故そのような態度をとってくるのか疑問だった。

そうなる原因は自分にあるんだろう、私が悪いからと感じてきた。彼らが怒るのは、虐めてくるのは、悪口を言ってくるその原因は自分にあるんだと考えてきた。小・中学校と明らかに人の気持ちがわからなくて傷つけてしまったこともあったから。それからは傷つけてしまった発言に対しては振り返り、吟味反省し、以後の言動には細心の注意を払ってきた。中学時代はクラス中に無視されていたが、これも自分の過失がこまねいた結果だから罰を受けるのは当然だと感じていた。

過失であっても人を傷つけるような言動や態度を、決してとってはならないという思い込みが生まれた。社会人になってからは特に。失敗は許されない。もう二度とあんな思いはしたくなかった、あんな大変な思いをするくらいなら自分を押し殺したほうが楽だった、自分なんて簡単に誤魔化せるのだから。いい人を演じるようになった、意地悪されても嫌みを言われても嫌だと感じたり態度に出してもならないのだ。相手の望むように母にするように、そして相手が言語化していない意図までをも酌むことに集中し腐心してきた。

その癖は未だに抜けず(疲れるし、いい人を演じる偽善的な自分を感じるのが苦痛だけれど、今は自分に向き合って健康な対応を心掛けているが)基本的にいい人をしているはずなのだが、それでも反感を向けてくるのは何故なのか理解できないでいた、愛しても優しくしても私を虐げる母にもだけれど。しかし今日、自己愛性パーソナリティ障害という知識を得た。

何故、私が嬉しい時や成功した時に嫌みを言う人がいるのか、「大したことない」と価値を下げるようなことを言う人がいるのか分かった気がする。信頼できる人と談笑している時、職場で仕事が上手くいった時に冷や水を浴びせるような事を言ってくる人がいるのか理解出来た気がする。これまでずっと謎だった、特定の人から感じる違和感、面白くないという感情、そして母がなぜ喜ばなかったのか、おぼろげながら輪郭がつかめてきた気がする、そんな考えはなかった。知ることができたのは幸いだった世界が変わった気がする。

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