「不得手だからって、始める前から挑戦しないのは、それは違うと思う」
子育ての他愛ない会話の中で引っ掛かった言葉だ。コミュニケーションが苦手だという特性の存在と、だからこそ個性に合った場所選びが大事なのだ、という私の言葉を受けての意見だったと思う。正直挑戦的な意見だと感じた、努力こそが報われる手段だとまだ思っているのだろうかとか、私は努力も挑戦もしてきたけれど負担はとても大きく、普通の当たり障りないコミュニケーションに全力を注いでいるのに上手くいっていないのにとか、そんな私に鞭打つ意見だな等と感じた。
モヤモヤした自分がいるが、何故なんだろうかと自己分析してみて一番しっくりしたのは「発達的な特性」「文章全体が読み取れない&文脈が消えてしまう」そんな思い込みの癖だ。幼稚な価値観の私は自分の延長線上に他人を見てしまうので「理解できる上限がある」気がしている、これまで考えてこなかった自分の外に真実があるのだという「暗黙知」に気付き始めている。もしかしたら、これがこれまで感じてきた違和感の正体なのかもしれない、私は誤解しやすいのだ。文脈が消えて断片的にしか理解できず誤解しているのに、それが真実だと思い込んでいる。それは誤解から生まれたとしても「私の中の真実」なのだ、私が感じたものが私の全てだから。
モヤモヤしたけれど客観視してみれば、彼女は私の「努力しても上手くいかないという葛藤」など知らないのだから、私に当て擦った訳でもないのだろうと思う。会話の中で誤解して一人怒るという思い込みの世界、ひとりよがりな癖を自覚した出来事だった。