頑張りすぎるのには理由があるのかもしれない。自分を大切にする事とは、大切にされる事とはそういう事だったんだ…私は頑張り過ぎていたんだと気付かされた言葉。
足指を骨折し5日目に、一日2万歩は歩く仕事に復帰した。仕事がほぼほぼ終わった時間に「早退してもいいのでは?」と声をかけられた、私は夫を迎えに行く時間があるのでと早退を辞退したが「骨折しているのに迎えに行くの?」と言われてハッとした。
思考の根底から、自分より他者を優先していた自分に気付いた、骨折していても他人に尽くすことが当たり前だった。常に「他人に対しては200%の力で尽くし、頑張ることが私の至上命題、迷惑をかけてはいけないのだから」。
これも間違った認知なのかもしれないと思い至った、自己犠牲し頑張ることが当たり前すぎて気付かなかった。「骨折していても歩けるのだから、多少痛くても仕事をしなくては!甘えてはならない!!」、「利き足ではなかったし車も運転できる、迎えに行くのは普通の事」、「夫はバスを逃すと乗換の関係で1時間ぐらい帰宅が遅くなるのだから、迎えに行くのは当たり前!」。
職場で気遣われることへの認知を変えて(=本心では迷惑だと怒っているという間違った認知)、素直に考えてみると当たり前の気遣いなんだけれど、母はこんな風に心配してくれたことは、実は一度も無かった。怪我であれ勉強の躓きであれ、私が困ることは「迷惑だ」と言われてきたのだ、母に酷い事をされてきたんだと改めて気付いた瞬間だった。
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