研修している人の事で教育係がこぼしている場面に遭遇した。指示を確認する作業で上司と部下の認識とのすり合わせの時、教育係は言い直されることがストレスなのだという。「何故普通に覚えられないのか?」「何故、黙って指示されたとおりに言い直すことが出来ないのか?」「彼だけにこんなやり取りを繰り返すのは疲れる」「彼は何故こんなやり方なのか?」「記憶できないの?」
認識のすり合わせは誤解や間違いを防ぐためには重要だと思うし、幾通りにも受け取れるあいまいな指示は(受け手側にとって)確認せざるを得ないものだと思うのだが、彼女たち教育係にとっては使う単語が違うことが引っ掛かっているようだった。耳の痛い話だった、何故なら私も同じように、聞いた指示を自分の言葉で認識し直す作業が必要だから。曖昧に認識してした失敗の数々、同じ失敗をしたくないという思いがある。教育係にストレスをかけるのは百も承知だが、このやり方でないと認識できない。
発達障害やグレーゾーンの勉強をしていく中で知ったことは、独特の覚え方は「脳の特性」という事、一つ一つの知識が個別にあり統合していない、体験と体験を結び付けていくマテリアルが少ないという事、自分の一部にしていく作業が必要という事、甘えや努力不足ではないという事だ。
ルービックキューブを連想した。人は皆、一つ一つの升目に記憶と知識がインプットされているルービックキューブを持つとするなら、定型の人が完成されたルービックキューブ、発達的な特性を持つ私はバラバラのキューブということかなと感じた。日常生活の対応の時、定型の人はキュキュッと記憶と知識を組み替えて多彩な面を構成できるが、発達的な私は対応しなければならない事象の確認から始まり、目的に合わせてバラバラのキューブを探し組み合わせて、健全なルービックキューブが存在するかのように振舞う。目的別に合わせてフレキシブルにキュキュッと組み合わせは変えられない、いったん止まってまた再構築するのだ。いちいち一回一回組み直して維持することがどれだけ大変か。教育係は分かっていないのだ、普通を装うことがどれだけ大変か、創造性や多様性が無いのだ。私はそこに思いやりのなさを感じるのだが、通常、関りの中でそんな配慮はしないのだろう。
誰かがそんなやり取りを知っていて「大事に育てられてますよね」と言った、私は意地悪で嫌みだなと感じた。特別な対応が必要な彼に嫉妬と蔑みを感じターゲットにしようとしている意図を感じた。誰だって上手くいっていないことを関係ない部署の人間に噂されていい気分はしないと思うのだけれど、同僚たちはまるで評定を下すもののような態度で話をする。印象操作、そして自己愛、誰かをやり玉に挙げていれば自分の問題に直面しなくて済むから。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます