ずっと人が怖かった、どう思われるか怖かった。
ずっと人から好かれたいと思っていた、関心を引きたかった、だから怖かったのだ。
記憶の奥底を探ると「母に好かれたい」「母に愛してほしい」がある。
私の苦しい記憶が私を縛っていたのだ、だから「わかってほしい」が強かったのだ。
だから私はもう演じることを止めようと思う、嫌な人には嫌われたっていいのだから。
嫌みを言われても、陰でコソコソ言われても、それは相手の問題、すべてが私の責任ではないのだ。
自分が正しいと思う生き方を「全う」していいのだ、誰かの為に生きなくていいのだ。
「誰かの為に」「相手が望むような」「嫌な役割」を「常に」演じなくていいのだ。
「母の為」に「ダメなお姉ちゃん」を演じなくてもいいのだ。
「嫌われてもいい」これまでの私の世界にない価値観なので混乱している。
本当の感情を「自分でも」無視して感じないようにしていたから。
これまでは、本心では苦しくても自分を騙すのは簡単だった、演じればいいから。
心で泣いて、表面は明るく振舞う、自分なんて簡単に誤魔化せたのだ。
一人暮らしで独身の頃、生活の為に働くには自分の惨めさに向き合わねばならなかった。
中学時代クラスメイト全員から無視された時と同じで、惨めでも生きていけたから。
惨めでも死ねないし人間は消えないのだ、惨めでも無常に朝は来るからと、自分を蔑ろにしてきた。
しかし、惨めだと絶望に似た苦しさを抱え続けなくてもいい、未熟でも生きていていい。
自分はダメな人間だと、惨めだと、自責して生きることは止めると決意したんだ。
東日本大震災で苦労した自分の為に、ただでは立ち上がらないと決めたんだ。
嫌われてもいい、私自身が私自身を価値のある人間だと、そう信じて生きていきたい。
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