苦しみを抱えていた私にも、今になってではあるけれど、愛おしい存在と呼べるものがある。
夫にももちろん感謝している、失敗しても肯定し守ってくれる、その存在自体が初めは衝撃的だった。
息子にもずいぶん癒された。私に向ける無垢な眼差し、その瞳に映る私自身の姿をいつも不思議な感覚で眺めていた。この信頼に応えたいと常に考えていた、幸せの源で宝物だった。
(今は思春期から青年期にある息子との関係は変化しているけれど、信頼関係はあるのだと信じている。知らず私の肯定の為に境界線を越えてしまっては怒られる毎日、ある意味では人生の教師のように、愛着や自己肯定について私の間違いを直球で指摘してくれる。彼は自分自身ではないのだからと教えてくれる、ありがたい存在)
そして、結婚後飼ったペットの犬には、これまで感じたことのない(息子や夫とも違う)全幅の愛情と信頼と肯定があった気がする。いつも私を見上げ寄り添ってくれる、この優しい性質の犬と過ごした数年間は生まれ変わるような感覚だった。
小さな頃から辛いことがあった、苦しいことも哀しい過去もあった。東日本大震災で転居して、いろいろ上手くいかなくて、パニック的になって自罰と自責で苦しくなって受診した心療内科で「得られたものもあったでしょ」と言われた。
当初は受け入れられなかった言葉だけれど、心の整理が進んできて、今はこの「得られたもの」と「亡き犬のこと」を思い出している。
得られたものは愛情だったと思う、私を裏切らない信頼は今こうして私の心に根付いている。私にも得られたものはあったのだ、これまで頑張って生きてきた、その中で星のように輝く宝物があったのだ、この発見は大きい。
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