心を込めて

心の庵「偶垂ら庵」
ありのままを吐き出して 私の物語を紡ぎ直す

可哀想に

2022-03-27 12:11:20 | 東日本大震災

「まぁ~可哀想に」

東日本大震災で避難先である東北を転々とし、震災に振り回されたくない、受動的ではなく能動的に人生を生きたいと転居した先で、散歩中の老婆に身の上話をする流れになってしまい、話した結果開口一番に言われた言葉だ。

そんな言葉をかけられるとは想像していなかった、老婆に気まずさは無く、自分は娘が呼び寄せてくれた、自分は長く勤めあげた、子供や孫もエリート街道を生きている、人生のご褒美の残り少ない時間をこれからは楽しんでいきたいと言った。

立ち位置が違うことで見えるものは全く違うのだと感じた、私は阪神淡路大震災の被災者に心から寄り添えていたのだろうか、戦争経験のある祖父母世代の苦しみに寄り添えていたのだろうか、経験者と未経験者ではこんなにも隔絶しているということに愕然とした出来事だった。

 

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一回泣いたほうがいい

2022-03-27 11:20:03 | 気づかされた言葉

 

東日本大震災から7・8年以上経過して、人間ドッグで医師の面談時に言われた言葉。

危機はもう目の前にないのに、精神的に苦しく鬱屈していることを、福島の現状を交えて話した。

パソコンの置かれた机でなく、こちらに向き合って私の目を見て一言さらりと言った。

「一回泣いた方がいいね」

重すぎる多くの感情を飲み込んでいた自分に気付いた。

私は本当は泣きたかったんだと気付いた。

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逃げたんだよね

2022-03-27 11:08:28 | 東日本大震災

心に深く刺さっている言葉がある「あなたたちは逃げたんだよね」

地域に貢献し地域の為に努力する意義を私は知っている、親孝行をして親戚を大切にし助け合う素晴らしさを私は知っている。

逃げたんだよねと親戚の高齢の女性に言われ、それを「シッ」とたしなめる別の女性、戸惑う私とのやり取りを冷めた目で見る多くの親戚。

針の筵とはこういうことを言うのかと、険悪な雰囲気の共通認識はこれであったのかと腑に落ちた瞬間だった。

罪を罪と認識していた、そうなのだ、逃げたと言われたら逃げたのだ、何も言い返せない、だってその通りなのだから。

「直ちに影響はありません」と各局の報道が変化したタイミングで「これまで」を捨てる判断をした。

アルバムと貴重品、身の回りのもの、直ぐに食べられるもの、水、毛布。

帰れなくなったとしても致し方ない、積み重ねが徒労となっても、生きていれば生きていける、危機的判断だった。

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海が許せない

2022-03-27 10:20:46 | 東日本大震災

東日本大震災を福島県浜通りで体験して、想像もしていなかった悔恨や絶望が生まれる様を目の当たりにした。

筆舌し難い混乱が育ち、人が人を傷つけ、絶望が絶望を刺激し合いながら、底なし沼のような底の見えない苦しみが蔓延した。

苦しみを感じないように自分たちを誤魔化し続けなければやってこれなかった。

健やかで素朴な人柄の人々が、苦しめられ続ける事で絶望に染まっていった。

震災が起こった結果、実家は家族の問題が浮かび上がった。

海をずっと見ることができなかった、悔しくて許せなくて、元凶のような気がして。

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あなただけ

2022-03-26 22:09:59 | かなしい記憶

トイレで母と父が口喧嘩していた、哀しそうに肩を震わせうずくまり泣き始めた母の背中は小さかった、こんな哀しい泣き声を初めて聞いた気がした。愛しい母が哀れに泣いている、6歳頃の子供でも哀しさへの共感はある、まして全幅の信頼を寄せる母ならば胸が痛む。

すぐ後ろにいた妹が母に取りすがった、私も何とか慰めたかったが大人の感情の奔流に怯んでしまった、伸ばした手は止まってしまった、その一瞬後に母は妹を抱きしめた「慰めてくれるのはあなただけ」そして私をじっと見て何かを言った。

今となっては何と言ったか思い出せないけれど、失望させたこと、母を思っていると伝えられなかった無念は心に残っている。そして母が私に向けた憎しみの目も。それは私に向けてだったのか父への怒りだったのか、両方だったのか。私は母を慰めたかった、ここに私がいるよと伝えたかった、私は味方だよって本当は言いたかった。

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