「自分を信じる」
自分を信じていいんだよ、これまでどんなに苦しかったか私は分かっている。
自分を信じられないことがどんなに辛い事か分かっている。
もう誰もあなたを縛らない、思ったことを感じていいし、好きなことを喜んでもいいのだ。
もう自分のことを憎まなくていい、罰しなくていい。
自分であることに罪悪感を感じなくていい。
あなたには私がいる、これからもずっと私はあなたの味方だよ。
「自分を信じる」
自分を信じていいんだよ、これまでどんなに苦しかったか私は分かっている。
自分を信じられないことがどんなに辛い事か分かっている。
もう誰もあなたを縛らない、思ったことを感じていいし、好きなことを喜んでもいいのだ。
もう自分のことを憎まなくていい、罰しなくていい。
自分であることに罪悪感を感じなくていい。
あなたには私がいる、これからもずっと私はあなたの味方だよ。
実は数日前に高校の担任から自宅に電話があった「警察から高校に通報があった、あなたの苗字なので連絡した」「心当たりはあるか?」全く心当たりがなかったので否定し、住んでいた地所には同世代の女子が5人以上存在し、同姓の者もいる旨を会話して終了した。今思えばきっと名指しだったのだろう。私は暢気に誤解があったんだろうくらいにしか考えていなかった、冤罪だったが寛容な気持ちだった。当時の私はアラレちゃんとあだ名され幼稚だったし、見た目は陰鬱で、興味は漫画と試験結果だった、着ている私服は概ね兄のお下がりのジーンズに黒いトレーナーで、女らしい服は妹にしか買い与えられていなかった。
膠着した母との問答の中、感情が決壊し私も泣き叫んだ「どうして信じてくれないのか」「娘を信じられないのか」。父が帰宅し、諍いの理由を問われ正直に話した、だがしかし状況は変わらなかった。父も母も私を信じなかった、魔女裁判のように既に決まっているのだ、私は有罪だと。その騒ぎがどのように静まって日常に繋がったか思い出せないけれど、両親に決定的な不信を抱いた、特に母は私にとって危険な存在だと認識し直した、今後も気を引き締めて警戒しなければならなかった、自分の身を守るために。
そして数十年が経ち、あの時は信じてもらえなくて悲しかったと母に伝えた時「絶対に噓を付いていると思っていた」と言われ、今でも嘘だと思ってるの?との問いに母は無言だった。そして結婚の時、入籍日を一年後と指定したのは妊娠しているからだと思ったと言った。私は複雑な気持ちになった、母は今も私を信用していないのだと感じた。
母に信用されない、愛されない、そんな哀しさや切なさを私はいまだに押し殺している。なぜ私は母に信用されないのか、なぜ母は私を憎んでいるのか理解できないでいる。理解できる日が来るのだろうか?答えのない問いが浮かんでは消えて人生に横たわる。母を愛しながら憎む、そんなアンビバレントな人生を送りたくはなかった、50歳になろうとする私は今も苦しみの中にいる。「許してあげなさい」という人もいるが、そうなのだろうか?あなたと私の母への感情は似て非なるもの、当事者でなければ認識できない世界があることを私は知っているのだ。
高校生の時にあった出来事、母の無理解と私の母への不信感、この未解決な問題は未だに関係性に横たわっている。
近所に買い物に出かけた母が血相を変えて帰宅した、私へ鋭く「胸に手を当ててよく考えなさい」「わかってるでしょう」と詰め寄った。夕飯の支度前のひと時、のんびりチラシを眺めつつボンヤリしていた私は何のことかよくわからなかった。怒り心頭で喚く詰問調の母から聞き出せたことは、私は不純異性交遊で男と逢引きしているらしい。近所の人が母に注意したようなのだが、母の中では私の言葉を聞くまでもなく、それはもう真実で、私は噓つきと決定していた。
私は正義は正しいと教わった、正直さが身を助けると教わった、そうでなくてはならぬと教わっていたのだ、今思うとそれは戦争時に後妻で嫁ぎ苦労した祖母の信条だったのだろうと想像できるが。「そんなことあるはずもない」「それは私ではない」と正直に対応して済む話だと最初は安易に考えていた。しかしそうではないと直ぐに思い知った、正直に言っても母は引き下がらないのだ、「嘘を付くなんて」「本当の事を話せ」と。正直に答えても信じてもらえない場合、子供である弱者はどう対処するべきなのか、母の思い込みを信じることができたなら、しかし今回の事例は私に害がある内容なのだ、この嘘は飲み干せない、どうあっても。
「まだ震災やってるんですか」
東日本大震災から2年経ち居を定めた関東圏で、子供の担任となった先生に面談時に言われた言葉。
言いようのないモヤモヤが黒い雲のように胸のなかで膨らんでいった。津波で流された家々や、荒れ果てた生まれ故郷が記憶の中で生々しく蘇った、苦しみと絶望の中で家族の死を迎え、無念と混沌の中で必死に生きようとしてきた多くの人々を思い出した。
思いやりとは、怒りとは、絶望とは、無念とは、そして希望とは、どう生きるのか生きたいのか、見つめ直さなくてはいけないのかも知れないと、うっすらと感じた、でもまだ考えたくなかった考えるのは辛過ぎた。
この当時の写真を見返すと、無理をして明るく振る舞う自分の笑顔がある。「皆が被災者」「もっと大変な人がいっぱいいる」と自分を鼓舞し、家では寝込み体が動かないのに、外に出てはPTAや子供の習い事に精を出し、仕事も探して働き始めたりと、自分の人生を肯定的に捉えようと必死だった。
今となってはそんな無理などしなくてよかったんだよ。哀しかったし辛かったよねと言ってあげたい、自分に優しくあって良かったのだと言ってあげたい、欲しかったのはきっとこんな言葉だったのだ。
「まぁ~可哀想に」
東日本大震災で避難先である東北を転々とし、震災に振り回されたくない、受動的ではなく能動的に人生を生きたいと転居した先で、散歩中の老婆に身の上話をする流れになってしまい、話した結果開口一番に言われた言葉だ。
そんな言葉をかけられるとは想像していなかった、老婆に気まずさは無く、自分は娘が呼び寄せてくれた、自分は長く勤めあげた、子供や孫もエリート街道を生きている、人生のご褒美の残り少ない時間をこれからは楽しんでいきたいと言った。
立ち位置が違うことで見えるものは全く違うのだと感じた、私は阪神淡路大震災の被災者に心から寄り添えていたのだろうか、戦争経験のある祖父母世代の苦しみに寄り添えていたのだろうか、経験者と未経験者ではこんなにも隔絶しているということに愕然とした出来事だった。