【 人を人と思えざれば畏れる所なし。 人を人と思わざるものが、吾を吾と思わざる世を憤るは如何。権貴栄達の士は人を人と思わざるに於いて得たるが如し。 只他ひとの吾を吾と思わぬ時に於いて拂然として色なす。任意に色を作し来たれ。 馬鹿野郎。・・・・・ 】
( 猫の主人、苦沙彌先生へ宛てた 天道 公平氏の手紙の一部である。 )
近くの寺の入り口付近に、最近、建てられた石づくりの仁王様である。何でも、この寺の観音様を信仰し続けたら、善い事があった信者が、寄進したものとか。此処を、散歩の途中などで、通るたびに、一度、何か語ってもらおうか、と思っていたものである。( ・・・他人の寄進したものに、相乗りは不味いか・・・・・ ナ !?)
◆ 天道 公平氏が、怒りをむける輩が、肩で風切り、あたりを払って跋扈する。いったん言い出したら、押せども引けども、梃子でも動かない。単に振り落とされまいと、しがみついているだけなのか、どちらに転ぼうと、自分自身には、矜持は少しばかり傷つくかもしれないが、マア、たいした事ではない、と高を括っているのか、いっこうに解らない。 「 真面目に、真剣に為を思ってやっております・・・・・・・$£%#&*§・・。」 肝心な部分では、言葉は空転しっぱなしで、結局、何を言っているのか解らない。
タイトルの【 善は外より来たらず 】は、屈原 の詩からのとったものである。以下は、次のように進む。
名は以て虚しく作なす可らず
孰いずれか施すこと無くして報あらんや
孰か実うえずして穫あらんや
◎ 善は外に在るものではない。徳行の内に在って外に発せられるものである。名は虚しく成すべきではない。道徳の世に播(し)けるものなりである。施すことをなくして報が得られるものではない。殖えないで収穫を得られるものではない。《 故に君の美を完うせんと欲すれば、吾は此の蹇蹇を為ざるを得ざるなり 》 この様に、解説されている。
屈 原は、妥協を知らない【 殉教の詩人 】である。時の王と共に政務に携わっていたが、讒言によって、王に疎んぜられ、追放される。屈原が去った後、王とその陪臣達による政治は、乱れる。陪臣達は、権勢ほしいままに、自己の利益にのみに走る。王もまたそれを止めようともしない。『 国家民生の為に成すべき事が、有り余るほど在ると言うのに・・・仁義の行は何処へ行ってしまったのか。 』 屈原は、諌める詩を書き続ける。そして、主義に殉ずる。死を選んでまで、自らを変えない。
もっと手軽く、世相風刺なコラムに、仕上げと意図して始めたけれど、タイトル選んだ文言が、固すぎた。自分の言葉で、見つけないと駄目ダナ、ヤッパリ。
漱石だとか、屈原だとかを、証人として引っ張り出してきて、証言して貰う。言ってしまえば、手軽な手法だけれど、新聞・tvを見ていて、画面の中の顔に、選んだ 【 文言 】 が重なる時あって、ヨシトスルカ。
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