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鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

長尾晴景と一字拝領

2021-06-13 21:51:08 | 長尾氏
長尾晴景は将軍足利義晴からその一字を拝領して実名「晴景」を名乗る。同時に「弥六郎」の名乗りも与えられている。この出来事の根拠となる文書は多数残っており疑いのないことであるが、その年次比定が問題となる。というのも、それらの文書には年号が付されておらず、内容から推定していく他ないのである。現在、享禄元年とする説が主に見られるが、書籍等によっては大永7年とするなどブレがある(大永8年8月に享禄元年へ改元)。例えば、『新潟県史』は両説を併記するに留めている。

結論から言うと、晴景への「晴」字と「弥六郎」の名乗りが与えられた年は享禄元年12月に確定できる。今回はこの年次比定について、検討してみたい。


[史料1]『新潟県史』資料編3、116号
長尾道一事、号弥六郎字并太刀一腰守助、遣之候、得其意可申下候也、
   十二月十二日    (足利義晴花押)
      大館伊予入道とのへ

[史料1]は足利義晴より道一(晴景)へ「弥九郎」、「字」並びに「太刀一腰」を与える事を伝える御内書である。この文書に足利義晴一字書出(*1)、大館常興副状(*2)が添えられて越後の長尾為景、道一父子の元に届けられた。

また、この時、為景へ「毛氈鞍覆・白キ笠袋」の使用を許可されており、それを伝える文書も同日付で発給されている(*3)。

つまり、[史料1]の年次比定がそのまま晴景の一字拝領の年次比定となる。ここから、[史料1]の年次比定について説明したい。


[史料2]『新潟県史』資料編3、121号
関東若君様御字御申之次第、令披露候之処、即被進之候、尤目出存候、此等之旨、宜被申達候、恐々謹言
              伊勢守
十月十日          貞忠
   長尾道一殿

[史料2]において幕府の奉行人である伊勢貞忠と長尾道一の間で、「関東若君様」=古河公方足利氏の人物への偏諱に関しての交渉が成されている。この古河公方足利氏の人物は佐藤博信氏(*4)が秋庭元重書状(*5)に見える「満千代王丸殿様」であることを明かにし、その書状は登場する人物の活動時期から大永7年もしくは享禄元年の発給に絞り込めることを指摘している。

ちなみに同氏は、足利満千代王丸が後の足利晴氏であることを指摘している。


ここで、足利晴氏への偏諱がなされた年次に注目する。この偏諱の件を古河足利氏側が幕府との繋がりのある長尾為景に依頼し、それが順調に進んだことが10月長尾憲長書状(*6)に記される。この書状には当時の書入として「大永八年十月十六日到」と見え、享禄元年10月の書状と見ることができる。改元が地方社会へ反映される誤差を考えれば「大永8年10月」は不自然ではない。


よって、[史料2]は享禄元年10月に比定される。その結果、享禄元年10月時点で晴景が幼名「道一」を名乗っていたことがわかる。

つまり、[史料1]が享禄元年10月以降であることが確実である。


[史料3]『新潟県史』資料編3、112号
越後布并蝋燭、青銅万疋到来、神妙、猶常興可申候也、
   七月廿八日      (足利義晴花押)
      長尾弥六郎とのへ

[史料3]は足利義晴が晴景からの献上品に対しての返信である。何らかの件に対して晴景側から幕府への謝礼であると推測されるが、その内容は記されていない。

ただ、花押型が特徴的である。足利義晴は享禄3年1月以降公家様の花押を用いるが、[史料3]の花押はその変更以前花押型であるという(*7)。

つまり、[史料3]は享禄3年1月以前の文書である。

[史料2]より享禄元年10月時点で長尾晴景は幼名「道一」を名乗るから、[史料3]のように7月時点で「長尾弥六郎」を名乗るのは享禄2年7月しかない。[史料3]が享禄2年7月に比定される。


享禄元年10月時点で「道一」、享禄2年7月に「弥六郎」を名乗ったということが確実になると、12月の日付を持つ[史料1]は享禄元年の文書であることが判明する。

よって、長尾晴景がその「晴」字と「弥六郎」の名乗りを与えられた時期は享禄元年12月であると明確にされるのである。

[史料3]における献上品は、それに対する謝礼であったことが理解されよう。


以上が、一連の出来事に関する年次比定のプロセスである。複数の書状や事柄から、歴史的事実が明かになる点は非常に興味深いと感じる。


*1)『新潟県史』資料編3、117号
*2) 同上、118号
*3) 同上、27、63号
*4)佐藤博信氏「古河公方足利氏の幼名について」(『中世東国の支配構造』思文閣史学叢書)
*5)『新潟県史』資料編5、3871号
*6) 『新潟県史』資料編3、44号
*7)『新潟県史』より


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