前回までに永正10年の乱について検討し、それが長尾為景と八条上杉氏らの抗争に上杉定実の動向が絡み合う複雑な構図を取っていたことを示した。
今回は、この反乱において八条上杉氏ら反抗勢力を支援したと推測される山内上杉憲房について注目していく。
1>憲房の関与を示す史料
まず、永正10年の乱において憲房が関与していた事実を示したい。
[史料1]
憲長
永正十年十一月十日
憲房
色部弥三郎殿
[史料1]名字状は、反乱の最中である永正10年11月に憲房が揚北衆色部昌長の子弥三郎に対し一字を与えたものである。
色部氏は永正4・5年の為景・定実方と揚北衆の抗争や永正6・7年の山内上杉顕定(可諄)の越後侵攻において、一貫して反為景つまり山内上杉氏方に味方しており、永正10年時点でもその関係が続いていたと見られる。
永正10年11月といえば抗争の最中であり、山内上杉憲房の介入が示唆される。
[史料2]『越佐史料』三巻、619頁
大澤右京之御父子、去年於上田一戦之時討死、然処、名代可相続骨肉無之歟、因茲為近所故、孫子亀寿致彼遺跡、忠儀不断絶様ニと申候哉、殊彼骨肉親類中ニ無拠遺跡可令相続人体罷出申候者、其時者不及異義可相渡段、以書付申間、任其義候、彼後家・親類以下に無非法之義、順路ニ可成刷旨、能々可加意見候、謹言
七月九日 憲房
発智山城入道殿
[史料2]に所見される発智山城入道は、発智氏関連文書や系図類から長享2年に上杉定昌に殉死した発智山城守入道景儀を父に持つ人物で永正初期に活動が見られる発智六郎右衛門尉の後身と推測される。発智六郎右衛門尉は永正7年4月に確実な所見があり、[史料2]はそれ以降の発給であることがわかっている。
この「去年於上田一戦」がどの合戦を指すのかは確実ではないが、『広神村史』や『越佐史料』は永正11年1月六日町の戦いと推測し[史料2]の発給年を永正12年7月に比定している。
『越後以来穴澤先祖留書』にも、「国中取合」となり「八条殿石川飯沼」と上田長尾氏らが六日町で合戦に及んだことが記されており、この乱が「上田御陣」や「六日市合戦」と呼ばれたと伝えられている。[史料2]の「上田一戦」が永正10年の乱に伴う六日町合戦であった可能性は高い。
つまり[史料2]により、永正10年の乱に山内上杉憲房が指揮下の軍勢を参加させていたことが推測されるのである。
ちなみに、[史料2]「上田一戦」を山内上杉顕定が戦死した永正7年6月長森原合戦に比定する向きもあるが、『越佐史料』に載る長森原合戦関連の一次史料や軍記物には「上田庄」という文言は全く見られない。片桐昭彦氏(*1)によって山内上杉が作成主体と指摘される『上杉系図大概』にも可諄は「越州長森原合戦討死」とある。つまり、長森原合戦はあくまで「長森原」と認識され、「上田一戦」などと呼称されることはなかったと考えられる。
23/12/8 追記
長森原合戦比定地を妻有庄・波多岐庄とする検討の提示 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~にて長森原合戦は上田庄ではなく波多岐庄で行われたと推測した。
また、『越後以来穴澤先祖留書』には、「此御陣ハ前屋形ノ衆ト当屋形ノ衆手ヲ合セ関東トモ合力アリ而、長尾ノ御一類根切ニナス可キ由ニ而御合戦アリ」との記載もある。「前屋形」=上杉房能、「当屋形」=上杉定実、「関東」=山内上杉憲房であるから、山内上杉氏の援助のもとに旧守護勢力と定実が協力して長尾為景に反抗したという意味になる。つまり、ここまで検討してきた永正10年の乱の構図が、穴澤氏という当事者の記録の中にも記されているのである。
以上、様々な史料において山内上杉憲房の関与が確認できることを示した。
2>憲房による軍事介入の背景
ここからは、越後への介入を図った山内上杉憲房の事情について見ていきたい。
まず、山内上杉憲房が義兄弟顕実との家督争いに勝利して家督と関東管領を継承した時期が永正9年6月である。
10年の乱の発生が永正10年7月であるから、憲房の権力掌握と関連している可能性は濃厚であろう。
永正7年8月上杉憲房書状(*2)において長尾為景の追討の支援を幕府へ要請するなど憲房の為景に対する敵愾心は明らかであり、以前から協力関係にある八条上杉氏ら旧守護勢力と結んで為景に対抗したと考えられよう。旧守護勢力としても、為景に対抗できる軍事力や政治的大義を得るためにも、憲房の後ろ盾は必須であったであったといえよう。
しかし、その背景は単に恨みや復讐といった感情的なものではない。
憲房の政治的立場について、森田真一氏(*3)は白井城を拠点とした上杉定昌の権力基盤を継承したと推測している。憲房が永正期に魚沼郡の所領問題について介入している点や、永正7年越後侵攻において憲房が帰城した先が白井城である点などをその根拠に挙げている。
上杉定昌は越後守護上杉房定の嫡子であり、上野国白井城を拠点に上野国北部及び越後国魚沼郡にかけて自身の権力を形成した存在であったが、長享2年に詳細不明の自死を遂げる。
六日町合戦において八条上杉氏の他、飯沼氏と石川氏が反乱方の大将として名前が挙げられているわけだが、この二氏の共通点として守護上杉氏の中でも特に上杉定昌の近臣であったという点がある。[史料2]で見た発智氏も定昌の近臣である。このように、家臣団からも森田氏の推測は肯定される。
つまり、定昌権力を継承した憲房は上野国北部及び越後国魚沼郡周辺に権力基盤持っており、永正7年の越後侵攻失敗によりその維持が危ぶまれる状況にあったのである。
これを踏まえると憲房が軍事介入に及んだ理由は、上野北部から越後魚沼郡にかけての自身の権力基盤を守るという実益の絡んだ現実的なものであったことがわかる。
10年の乱において六日町の戦いなど上田庄周辺において抗争が展開された理由も、この乱がそれらの権力基盤を巡る争いを含んでいたと考えれば納得がいく。
さらに、反抗勢力を上杉旧臣と表現してきたが、特に上杉定昌及び憲房権力に含まれた家臣団と言い換えることができる。彼らも主人である定昌や憲房と同様にその経済的基盤は上野国北部や魚沼郡周辺にあったのではないか。
上杉旧臣の中には齋藤氏や千坂氏など為景に味方した人物もいるが、彼らは定昌・憲房権力とは全く別の政治権力に属する存在であった。飯沼氏や石川氏と違い越後の権力中枢に近く、守護上杉氏が没落しても長尾氏に従うことで自らの権益を維持できると踏んだのであろう。
守護上杉氏旧臣が自身の帰属先に長尾為景を選ぶか、山内上杉氏を選ぶか、または上杉定実を選ぶかは、武将個人の好みや思想ではなく政治体制や権力基盤にあらかじめ規定されていたと言うことができよう。
以上ように永正10年の乱に関する多くの点に、憲房とその家臣団、さらには権力基盤を巡る争いが透けて見えるのである。
永正10年の乱が為景の勝利に終わり、憲房としても古河公方や扇谷上杉氏、伊勢氏といった関東の勢力への対応が急務となった結果、越後への介入を断念することとなったと見られる。
さて永正10年の乱についてまとめると、長尾為景と越後の権力中枢から排除された八条上杉氏、越後国内の権益を維持したい山内上杉憲房の対立が顕在化したものであり、そこに為景の傀儡となることを嫌った定実の離反が重なったものと見ることができる。
*1)片桐昭彦氏「山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜」(『山内上杉氏』戒光祥出版)
*2)『越佐史料』三巻、561頁
*3)森田真一氏『上杉顕定』(戒光祥出版)
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