長尾為景は晩年に入道し、入道名を名乗る。『新潟県史』は「紋竹庵張恕」とし、私もそれに従ってきた。しかし、前嶋敏氏(*1)は原本から見て正しくは「絞竹庵張恕」であったことを指摘している。「紋」と「絞」と表記に相違がある。今回は改めて長尾為景の庵号を確認したい。
まず、『新潟県史』では先述のように「紋竹庵」である。『越佐史料』においても「紋竹庵」とある。また、研究者の論稿を見ても多数の文献で「紋竹庵」が散見される。つまり、通説的には「紋竹庵」が広く伝えられていたことがわかる。
しかし、前嶋氏のいうように原本や謄写本を確認すると「紋」ではなく「絞」に見える。例えば、築地彦七郎宛長尾張恕書状(*2)の原本や『歴代古案』の謄写本である。『長尾政景夫妻画像』における戒名を見ても「絞竹庵」と記されている。
長尾為景文書を詳細に検討した阿部洋輔氏「長尾為景文書の花押と編年」(*3)においても庵号は「絞竹庵」とされていた。
以上から、主要な刊本において誤読され、それを元に誤った庵号が通説化したと考えられる。よって正しくは「絞竹庵」であり、長尾為景の入道名は長尾絞竹庵張恕であったことが理解される。
以前の記事においては『新潟県史』を参考として表記していたため修正しておきたい。原本の確認が大切であることを再認識させられた。
*1)前嶋敏氏「越後享禄・天文の乱と長尾氏・中条氏」(『長尾為景』戒光祥出版)
*2)『新潟県史』資料編4、1438号
*3)阿部洋輔氏「長尾為景文書の花押と編年」(『長尾為景』戒光祥出版)
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