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鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

永正10年上杉定実の挙兵とそれに前後する抗争の実態について1

2022-04-10 14:03:47 | 長尾氏
越後守護代長尾為景は永正10~11年にかけて越後国内の反乱を鎮圧した後、守護上杉定実を政治の中枢から排除しその支配体制をさらに強固にする。

この反乱は主に上杉定実と長尾為景の対立を中心に語られ、一般に”上杉定実の反乱”といった見方がされがちである。事実、定実は春日山城に籠城しており、二人の軍事的対立は明らかである。しかし過程や経緯から推測すると二人の敵対は一連の抗争の一面にすぎず、根本には永正初期からの八条氏、越後上杉氏に近しい諸領主、さらには山内上杉氏と長尾為景の対立があったと考えられる。

つまり、為景に敵対した主体は八条上杉氏、旧守護上杉氏家臣団とそれを支援する山内上杉氏であり、定実の挙兵は為景を排除するためその対立に便乗したものと考えられる。

従来、為景と定実の対立が注目され、山内上杉氏との関係は見過ごされていたように思われる。実際、山内上杉氏は上杉可諄の戦死後、家督争いなどもあって越後への影響力の低下は確実である。しかし、越後に隣接する巨大勢力であることは疑いなく、その影響力を軽視することはできない。

今回から数回にかけて定実だけではなく、八条上杉氏や山内上杉氏といった視点でこの抗争の実態について検討していきたい。この反乱の呼称であるが”定実の乱”や”八条氏の乱”では余計なバイアスが掛かってしまうため、ここでは便宜的に永正10年及び11年に起きた乱という意味で”永正10年の乱”と呼びたい。


1>永正10年の乱前後の政治的状況
まず、反乱前後における守護上杉定実と守護代長尾為景の権力体制について確認する。

木村康裕氏(*1)は永正10年2月斉藤昌信・千坂景長書状(*2)を守護勢力が守護の意向を受けて発給した守護年寄奉書の終見であるとし、「この年、守護代長尾為景は、守護上杉定実を幽閉するなど、守護勢力を一掃し、守護権力内部の実質的主導権を掌握するに至った。」とする。ここでいう永正10年の乱のことである。

実際、上杉定実個人の発給文書を見ても永正10年3月長尾為景安堵状(*3)に定実の袖判が見られるのを最後に、為景が死去する天文10年12月に至るまで知行宛行や安堵など政治的な文書は一切ない。

またこの乱の後、永正12年閏2月の長尾為景が毛利安田氏に知行を安堵するが(*4)、末尾に「御屋形様御定上、追而御判可申成者也」と述べられ、為景は守護の交代までも企図していたことがわかる。ただ、永正12年12月に幕府が上杉定実に対し京都高倉の地を安堵している(*5)。この高倉の地については文明9年11月に当時の守護上杉房定が幕府から安堵された所であるから(*6)、永正10年の乱後においても幕府からは定実が守護と認められたと考えられる。以後も定実の他に守護は確認されないため、為景の新守護擁立は失敗に終わったようである。

ちなみに、永正期における為景の新守護擁立については上杉房安という人物中心に以前検討している。
以前の記事はこちら


ここまでを総合すれば、永正10年の乱前まで上杉定実は実務の伴う守護であったが、乱後は守護という肩書きだけは維持するもののそこに活動実態はなくなった、といえる。守護の形骸化である。

よって、この乱が守護上杉定実の動向に大きく関わり、結果として長尾為景の権力強化に繋がったことは疑いようがない。

これが永正10年の乱が為景と定実の抗争と見られる一因であり、実際に両者の関係を一変させたことは間違いない。


2>反乱の推移
永正10年の乱において最も早く確認できる対立の記録は永正10年7月である。同年7月24日長尾為景宛島津貞忠書状(*7)に「当国其御国まで、色々不思議成□之由申候、御進退何篇にも御用心簡要候」とある。

当時北信濃の領主高梨澄頼と、没落していた中野氏の残党が村上氏の支援を受けて抗争に及んでおり、同じく北信濃の領主である島津氏が長尾為景へ状況を報告した書状である。内容から、「当国」=信濃とさらには「其御国」=越後までが「色々不思議」=思いがけない状況になっていたことがわかる。

信濃において高梨氏と中野氏残党が抗争すると同時に、この時点で越後国内でも長尾為景と敵対勢力が対立していたと推測される。


この7月の対立は翌8月における諸将の動向からも窺われる。

8月1日上杉定実書状(*8)において、定実は栖吉長尾房景へ「進退雑意申回候哉、無是非候、誠讒人等欲申妨候歟」と伝えている。つまり、定実の「進退」に関わる程の政治的対立が生じていたことがわかる。ここで留意すべき点は、定実は雑説について「讒人」の妨げであると説明しており、為景と定実は同陣営として活動している。

また、同日に中条藤資が為景に対して起請文(*9)を提出し、それに対して同月19日には反対に為景が藤資へ「不可有御等閑旨」について起請文(*10)を発給している。これも越後国内の動揺が原因であろう。


ここまでをまとめると、永正10年7月に長尾為景と何らかの勢力が対立し、上杉定実が対立勢力に与するとの憶測が流れた上で、定実は為景陣営に留まっていた、ということがわかる。為景と定実の政治的対立も顕在化しながらも、それとは別の第三勢力との対立が生じていたということだ。


そしてその第三勢力こそ、永正11年1月六日町の戦いにおいて敵の大将首として名前が挙げられる八条左衛門尉や石川氏、飯沼氏といった旧守護上杉氏家臣とそれを支援する山内上杉氏ではないか。


次回以降引き続き、永正10年の乱の推移を詳しく検討し長尾為景、上杉定実、旧守護勢力という三つの勢力の動向を明らかにし、抗争の実態を見ていきたい。




*1) 木村康裕氏「守護上杉氏発給分文書の分析」(『戦国期越後上杉氏の研究』岩田書院)
*2) 『新潟県史』資料編5、2796号
*3) 『新潟県史』資料編4、2253号
*4) 同上、1563号
*5) 『越佐史料』三巻、620頁
*6)同上、215頁
*7)『新潟県史』資料編3、151号
*8)同上、172号
*9) 『越佐史料』三巻、592頁
*10) 同上、593頁



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