前回に鵜川神社文書に見える「政勝」を琵琶嶋上杉政勝と比定した。今回は、それを踏まえて琵琶嶋上杉氏の系譜について考えてみたい。
[史料1]『新潟県史』資料編4、2269号
刈羽郡琵琶嶋之八社宮拾八貫之地、永代寄進之処也、仍如件、
永正五年
八月拾七日 正藤
[史料2]『新潟県史』資料編4、2268号
刈羽郡琵琶嶋之八幡宮、拾八貫之地、永代寄進之処実正也、於神前抜丹誠、可致祈念者也、仍而如件、
永正五年
八月従七日 為景
[史料1][史料2]は上杉房能、八条尾張守父子死去後から続く八条成定との抗争が終結し、長尾為景と「正藤」という人物が琵琶島鵜川神社へ同日に発給した寄進状である。森田真一氏(*1)は「正藤」書状が簡潔で花押も大きいことから寄進主体とし、さらに「為景の指示を得て成定の後に、この『正藤』が八条上杉家(あるいは琵琶島家)の当主として担ぎ出されたのではなかろうか。」としている。
「正藤」を上杉氏一族琵琶嶋氏に繋がる系統とする点は納得できる。しかし、それが八条上杉氏の継承である点については安易に首肯できない。
琵琶嶋氏=八条氏説は、琵琶嶋氏が八条氏の所領琵琶島を拠点としている事実に基づいているが、裏返せばその他に明確な根拠はない。例えば、森田氏(*1)は『系図纂要』の犬懸上杉氏の持房の系統に「政藤」が見えることにも言及しているが、これは四条上杉政藤のことである。四条上杉政藤は木下聡氏(*2)が延徳2年に京都において死去したことを指摘しているから、「正藤」とは別人である。ただ、後述のように永禄期には琵琶嶋氏としても「政藤」がいたと推測される。
さらに、『越後過去名簿』より天文11年には「白川庄」の「八条憲繁」が供養されていることが確認でき、八条氏は永正期に長尾為景と戦い敗れながらそれ以降も白川庄を拠点にその存在を維持していたことがわかる。「憲」は山内上杉憲房の偏諱であると推定され、単なる傍流としては片付けられない人物である。
また、「正藤」が八条氏を継承したのならば、そのまま八条氏を名乗った方が良いとも思う。すると、琵琶嶋氏は八条氏ではない親為景派上杉氏から分かれた一族と考えられ、だからこそ区別するために「琵琶嶋」を名乗ったと推測できる。為景は要衝柏崎周辺の支配を円滑に行うために、後の琵琶嶋氏となる上杉氏分家を新たに擁立したのではないか。八条氏は15世紀後半に越後に下向した存在であり越後では在府したと推測されているから(*1)、琵琶嶋への在地性は薄かったと想定され、その土地の支配が八条氏の家臣団や支配構造の継承を必要とすることも少なかったであろう。
よって、琵琶嶋氏=八条氏という図式は、早計であると感じる。為景が正藤を擁立したのは”八条だから”ではなく”上杉だから”といえる。ただ、「正藤」の出身に関しては、はっきりと分からないのが正直な所であり、「正藤」の段階で琵琶嶋氏を名乗ったかも不明である。ひとまず、「上杉正藤」が八条氏の後に琵琶嶋に入り、その系統が琵琶嶋上杉氏を形成したと想定されることを留意するに止めておきたい。
[史料3]『新潟県史』資料編4、2272号
小地ニ候得共、先々うはらめの白山宮千二百かりのふんやしきともに、諸役をちゅうし、出し候、能々御きねん尤候、何様可然地候ハハ、重而見あてかい可申候也、仍而如件、
永禄八 三月五日 政藤
千日大夫 参
[史料3]は、前回検討した琵琶嶋政勝文書や[史料1]と同じく鵜川神社に伝来する文書である。その点から署名の「政藤」も、正藤や政勝と同じく琵琶嶋上杉氏と見ることができる。
正藤の次代であろう。正藤と政藤は、永正と永禄と大きく離れた時期での所見であるから別人である。ただ、その実名の共通性も琵琶嶋上杉氏である証左であろう。
天文24年の軍事行動の際長尾景虎が毛利安田景元へ「上条・琵琶嶋其外被加御意見」と要請しており(*3)、政藤の活動を表わすとみてよいだろう。『越後平定以下太刀祝儀次第写』の永禄2年に見える「びわ嶋殿」も政藤のこととなる。『上杉御年譜』には永禄12年に12月に「枇杷島弥七郎」が病死したとしており、本当であれば政藤にあたる。天文期から永禄期にかけての琵琶嶋上杉氏として政藤が存在したと推測できる。
続いて、天正元年上杉謙信書状(*4)の宛名に「琵琶嶋弥七郎殿」が見える。琵琶嶋政勝のことである。天正2年には政勝の判物(*5)、天正4年に前回検討した宛行状(*6)が所見される。
政勝の次代が御館の乱における天正6年上杉景虎書状(*7)の宛名に初見される琵琶嶋善次郎である。実名は不明である。御館の乱において琵琶嶋善次郎が琵琶嶋において上杉景虎に味方していることが史料上確認できることから(*8)、この頃まで琵琶嶋上杉氏が琵琶嶋を拠点としていたことが確実となる(*9)。
以降琵琶嶋氏は所見されず、御館の乱により琵琶嶋氏は没落したと考えるのが妥当であろう。
ここから、補足的に諸史料に見える琵琶嶋氏について確認する。
『文禄三年定能員数目録』には「西浜郷并琵琶島保 千六拾石 六拾二人 山本寺九郎兵衛」とあり、注釈として「右ハ兄又四郎長定一跡被下候、此九郎兵衛ハ琵琶島助兵衛ト云」としている。『御家中諸士略系譜』では「勝長」が九郎兵衛、伊予守を名乗ったとするが、「助兵衛」や琵琶嶋氏の話題はない。
『越後三条山吉家伝記写』には、景長の項に「後妻ハ琵琶島越中守娘也」とあり、別に「為景公御婿は上田正景、琵琶島越中守、上条入道冝順と云々」と記される。この「越中守」は年代的に政藤にあたる。
同『伝記』には「琵琶島ハ在名、本名ハ長尾也、白井長尾ハヒハシマ長尾より分ル」とあり、長尾氏からの養子入りも想定される。前回、政勝が長尾氏出身の可能性もあるとした。
『吉江系図』に永正二年生「宗信」の母が「琵琶島日向守春綱女」とする。しかし、永正2年以前に琵琶嶋氏の存在は想定し難く、信用できない。
ここまで、琵琶嶋上杉氏についての系譜を考察し、その存在について検討してきた。度々長尾為景に反抗した上条定憲や八条一族などの上杉氏とは異なり、琵琶嶋上杉氏は天文の乱においても為景に味方したことが確認できるから(*10)一貫して親為景派であったことがわかる。様々な系統の存在する上杉氏一族を考える上で、重要であるように思う。正藤の出身も含め、また別の機会に詳しく検討したい。
以上、琵琶嶋上杉氏として、
正藤-政藤-政勝(弥七郎)-(善次郎)、という系譜が想定される。
史料が少なく父子関係等は不明である。実名や活動時期から正藤-政藤は父子であろうか。また、所伝から政勝は他氏出身の可能性がある。
追記1 :
琵琶嶋上杉氏の系統についてさらなる検討を加え、上条上杉氏の分流である可能性を提示した。
追記2:
『先祖由緒帳』と呼ばれる史料から、琵琶嶋上杉氏が上条上杉氏の分流である徴証を示した。
*1)森田真一氏「越後守護家・八条家と白川庄」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)、「戦国期の越後守護所」(『上杉謙信』高志書院)
*2) 木下聡氏「室町幕府外様衆の基礎的研究」
*3)『新潟県史』資料編4、1568号
*4)『上越市史』別編1、1149号
*5)同上、1210号
*6)『新潟県史』資料編4、2273号
*7)『上越市史』別編2、1713号
*8)『上越市史』別編2、1713号、1715号
*9)今福匡氏『上杉景虎 謙信後継を狙った反主流派』(宮帯出版)
*10)『越佐史料』三巻、795頁、817頁
※21/5/9 追記1を作成した。
※21/5/15 追記2を作成した。
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