鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

五十公野重家の動向

2023-08-02 22:39:25 | 新発田氏・五十公野氏
新発田重家は天正期における新発田重家の乱においてその名で広く知られる人物である。しかし、五十公野氏を継承していた時から実名「重家」を名乗り活動していた事実は見過ごされがちである。今回は、彼が五十公野重家を名乗っていた頃の動向を中心に紹介してみたい。


1>実名について
天正7年2月3日鰺坂長実宛新発田長敦等三名連署状(*1)に「五十公野因幡守 重家」の署名がある。これより新発田氏家督継承以前に重家を名乗っていたことが明らかとなる。これ以前にその実名を示す史料はないが、享禄4年1月連判軍陣壁書写(*2)に五十公野弥三郎景家が所見され、「家」は五十公野氏の通字であった可能性が想定され、重家は五十公野氏継承と同時にその実名を名乗ったと考えられよう。

重家は五十公野氏の継承以前、新発田氏庶流としても活動が認められる。この時の実名は不明である。『北越略風土記』や『越後名寄』には重家を表す「新発田治長」という人物が見られ、『越後治乱記』などでは「五十公野源太治長」が登場する。このように実名「治長」を伝える編纂物が散見されるが後世の所伝であり信憑性に欠ける。

むしろ『謙信公御書集』では、永禄12年4月の項などに「新発田右衛門大夫綱成」と記載されている点に注目したい。同書は江戸前期に米沢藩で原典が成立したとされ前述の伝承の類よりは信がおける。もちろん天正期に滅亡した新発田氏について詳細に把握することは困難であっただろうからあくまで参考として留めておくべきだろうが、米沢藩初期において「治長」と認識されていない点はやはり実名「治長」が後世の作であることを示しているように思う。

ちなみに、仮名源太が越佐史料所収『新発田系図』などでも見られるが確実な史料では確認されない。永禄11年11月山吉豊守等三名連署状(*3)に「新発田源二郎」なる人物が登場しているが、もちろん重家とは別人である。弘治~永禄初期と推定される某条書(*4)において「新発田助二郎」が挙げられており、有力領主善根氏、安田氏と並んで記されていることや永禄4年に長敦が初見されることを踏まえるとこれは長敦の仮名ではないか(*5)。


2>五十公野氏の継承
文書上の初見から五十公野氏の継承まで、「新発田右衛門大夫」を名乗る。初見は永禄8年4月24日上杉輝虎書状(*6)であり、関東出陣のため上野国長井に在陣している。右衛門大夫としての終見は元亀元年10月10日上杉謙信書状(*7)であり、倉内城在城衆へ武田氏への対応を指示している。新発田右衛門大夫としては一貫して河田重親や松本景繁、小中大蔵少輔など倉内城(沼田城)在城衆と共に、その周辺情勢に関する文書に登場することから、倉内城に在城し活動していたと考えられる。

五十公野氏としては、天正3年2月16日上杉家軍役帳に「五十公野右衛門尉」として初見される。続いて、天正4年2月20日長綱連等四名連署状(*8)の宛名の一人「五十公野右衛門殿」が重家である。天正5年上杉家家中名字にも「五十公野右衛門尉」が見える。残念ながら、上杉謙信期における五十公野氏としての所見はこの三つのみである。しかし、天正4年において重家は色部長実、斎藤朝信らと共に能登の長氏、遊佐氏、温井氏らと交信しており、倉内在城衆であった新発田右衛門大夫時代とは異なり、より権力中枢を構成する一員として所見されている点が注目である。上杉景勝期においても有力諸将とともに武田氏との交渉に参加するなど政治的中枢に位置する重家の立場は継続している。つまり重家は新発田氏庶子として活動していた時期に比べ、五十公野氏継承後はその政治的立場を変化させたことが推測される。

重家の五十公野氏継承の時期について考えてみたい。まず、以前の五十公野氏の人物として永禄9年2月11日上杉輝虎印判覚(*9)に五十公野玄蕃允が所見される。享禄4年軍陣壁書の弥三郎景家との関係は不明であるが、同書に署名のある人物は全て永禄期には所見されず世代交代を見ているような時代経過より、景家と玄蕃允は同一人物ではなく先代とその後代と見るべきであろう。次代或いは次々代といったところであろう。系図類では重家の叔父に「五十公野大膳亮弘家」を認めるという。飯田素州氏(*10)は「弘家」を玄蕃允に比定するが、系図上の人物を根拠もなく文書上人物に当て嵌めたにすぎない。新発田氏出身で五十公野氏へ入嗣した「大膳亮弘家」という人物の所伝については慎重に考えていくべきだろう。

さて、玄蕃允は佐野在城を命じられておきながら、永禄10年5月以前に「五十公野雖其地退散候、路為不自由無体ニ被押候」=佐野城を脱走し帰路に敵へ捕縛された、という(*11)。『上越市史』などはこの「五十公野」を重家に比定するも、重家はこの時期まだ「新発田右衛門大夫」であり、前述の書状(*9)から玄蕃允の佐野在城は確実であるから、脱走し敵に捕縛された「五十公野」は玄蕃允で間違いない。

永禄11年8月18日上杉輝虎書状(*12)に飯山城へ「新発田・五十公野・吉江佐渡守」が移ったことが記載される。『上杉氏年表』はこの「五十公野」を重家に比定する。しかし、同年10月16日上杉輝虎書状(*13)において新発田右衛門大夫(=重家)は倉内城を守備していることから、この「五十公野」が重家ではありえない。敵地から復帰した玄蕃允ではないか。敵地に捕縛されたとはいえ政治的、戦略的にも殺害までは行き過ぎであろう。人質交換や金銭の授受はあったかもしれないが、生きて越後へ帰ってきたのではなかろうか。永禄9年松本景繁が北条氏へ捕らわれながらも無事に復帰している事例もある。とはいえ、この永禄11年8月「五十公野」が玄蕃允の終見である。

追記:2024/5/30
永禄10年5月14日蘆名盛氏宛北条氏政書状(『戦国遺文』後北条氏編三巻、1023号)においても五十公野氏の佐野城出城について記述があった。それによると「五十公野ニモ佐野出城、其口エ被罷越、貴辺頼入、在処エ可達本意由候間、則差越候」とある。つまり、五十公野玄蕃允が蘆名氏に捕縛されたというのは輝虎の誇張であり、実際には玄蕃允が積極的に蘆名盛氏を頼り会津を経由して自らの所領五十公野へ帰還していた事実が推測される。本拠五十公野の地理や後年新発田重家が蘆名氏と連携し上杉景勝と交戦したことを踏まえれば五十公野氏と会津蘆名氏との交流があったことは当然とも言え、北条氏政書状における記述は蓋然性の高いものと思われる。そうであれば、永禄10年以降にも玄蕃允が活動したことも違和感がない。これは上杉輝虎が有力領主の統制に苦慮していたとも捉えられる。玄蕃允の佐野出城は当時の輝虎と揚北衆の関係を示す一例ともいえ慎重な検討が求められよう。


以上より、重家の五十公野氏継承は、新発田右衛門大夫としての終見元亀元年10月以降、五十公野右衛門尉初見天正3年2月以前であるといえる。


3>御館の乱における五十公野重家
謙信死後の初見は天正6年6月跡部勝資書状(*14)である。他の有力武将11名と共に宛名として「五十公野右衛門殿」と見える。上杉景勝と上杉景虎が争った御館の乱において景勝方と甲斐武田氏の交渉に関する文書である。重家が景勝政権の初期においても政治的中枢に位置していたことを窺わせる。ちなみに、これが官途名・右衛門尉の終見である。

天正6年9月28日上杉景勝書状写(*15)に「新発田因幡守」が大場の戦いで活躍したことが記される。受領名・因幡守の初見であり天正5年6月から9月の間に受領名因幡守を名乗ったと推測される。天正8年閏3月28日上杉景勝書状(*16)の宛名として「新発田因幡守殿」として見える。しかし重家は天正8年まで五十公野氏で所見されるため、上杉景勝があえて新発田氏として扱っていたと推測されるが詳細は不明である。

天正7年2月に前述書状(*1)で五十公野因幡守重家として見え、天正8年4月9日武田勝頼書状(*17)でも新発田長敦、竹俣慶綱と並んで、「五十公野因幡守殿」と宛名に記されている。同書状が新発田長敦の終見と考えると、概ね天正8年春~夏頃に兄長敦の死去を受けて新発田氏を継承し新発田因幡守重家を名乗ったと考えられる。『覚上公御書集』では天正7年7月に長敦が病死し「舎兄長敦遺跡」を「舎弟重家有賜」とあるが、天正8年7月の誤りではないか。

天正8年半ばに新発田氏を継承すると、その後新発田因幡守重家として活動していく。五十公野氏は重家の姻戚であった三条道如斎信宗が継いだと『上杉御年譜』や『謙信公御書集』などに伝えられる。


以上、五十公野重家の動向について検討した。新発田氏、五十公野氏はその滅亡により史料が少なく、実態の解明は困難が伴う。次回では重家の後継と想定される道如斎信宗について検討してみたい。



*1)『越佐史料』5巻、645頁
*2)『新潟県史』資料編3、269号
*3)『新潟県史』資料編4、2338号
*4)『新潟県史』資料編5、3279号
*5)越佐史料所収『新発田系図』では長敦の仮名を「源二郎」とするが、系図の記載は正確性において疑問である。
*6『新潟県史』資料編5、4040号
*7)『上越市史』別編1、946号
*8)『越佐史料』五巻、326頁
*9)『新潟県史』資料編5、3683号
*10)飯田素州氏『越後加地氏新発田氏の系譜』新潟日報事業社
*11)『新潟県史』資料編4、1066号
*12)『上越市史』別編1、613号
*13)『越佐史料』四巻、674頁
*14)『新潟県史』資料編5、3475号
*15)『新潟県史』資料編3、419号
*16)『新潟県史』資料編5、2847号
*17)『越佐史料』五巻、753頁


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