陽気だが、蓮っ葉(はすっぱ)な性格であったらしい清少納言に比べると、紫式部は内気すぎて平安朝の宮廷生活を楽しめず、鬱々(うつうつ)として気分を滅入らせることが多かったらしい。
その引き込みがちな性格は、仕える侍女たちにも小言ひとつ言うのもためらわせてしまうものがあるのを自分でも情けなくも思っていたようだ。
同志社大学名誉教授の南波先生が生前に話されていたのを思い出すと、紫式部は従姉妹などに身の上相談を手紙で持ちかけられると親身になって相談にのってやっていたらしい。充分にやさしい性質であった。
日記を書いていた頃は、夫を亡くして寂しさがつのっていたころなのか、
「漢籍の類を、特に大切に所蔵していた夫も亡くなった後は、手を触れる人も別におりません。それらを、あまりの寂寥に耐えられない時に、一冊二冊と引き出して見ていますのを、侍女たちが寄り集まって、
「奥様はこのようでいらっしゃるから、お幸せが薄いのです。いったい、どういう女の人が漢文の本などを読むのでしょうか。・・・省略」
と、陰口を言うのを聞きますにつけても、縁起をかついだ人が、将来長命に恵まれるようだとは、あまり例が見当たらないことだと、言ってやりたいと思いましたが、それでは思いやりに欠けるようであるし・・・省略」
と、心の内に納めてしまうのであった。
「まして、人中に出るようになってからは、口に出して言いたいことがありましても、いやもう何も言うまいと思われ、こちらを理解してくれそうもない人には、言ったところで無駄であろうし、何かと人を非難しし、我こそと思っている人の前では、煩わしいので口をきくことも億劫です。特にそんなに何もかもすぐれているという人は、めったにいないものです。だいたいの場合、自分の心に作った基準をもとにして、他人を否定したりするもののようです」
と日記に心を吐露している。
どうだろう、5月の連休も終り、慣れない新入社員生活にも倦んだ若い方も、ブログ日記に同じようなグチを洩らしているかもしれない。
紫式部の宮仕え日記も、藤原道長の栄華を描きながらも、くったくのある自身の気持を書き込んでいっている。どうして、なぜなの、自分ながらおかしい気持だとも分析している。今も昔も生きにくい世の中であるらしいとわかると、慰められる私である。
すでに有名な『源氏物語』は書き始められていて、その評判ゆえに藤原道長の娘、彰子(一条天皇中宮)の女房として仕えるようになった。
そのせいか、朋輩にもこういわれてしまう始末。
「こういう、おっとりとした方だとは推測していませんでした。ひどく風流ぶっていて、気づまりで、近寄りにくく、よそよそしい態度をして、物語好きで、思わせぶりにしていて、何かというとすぐ歌を詠み、人を人とも思わないで、憎らしげに人を見くだすような人だと、誰もみな言ったり思ったりして憎んでいたのに、お会いしてみると、不思議なほどおっとりとしていて、別人かと思われました」
面と向かってキツイ表現で自分の評判を聞く悲しさ。あまりに、みくびられたのも物悲しいけど、この身につけた態度で世の中を渡っていこうと紫式部は心に決めるのでありました・・・。
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『紫式部日記』 全訳中 宮崎莊平