因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座公演 『ジャンガリアン』

2021-11-18 | 舞台
*横山拓也(iaku)作 松本祐子演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 20日まで 横山作品観劇のblog記事は2010年から→(1,2,3,4,5,6,7,8,9
 
 大阪の小さな商店街にあるとんかつ屋「たきかつ」は、母の多喜幸子(𠮷野由志子)の父(故人)の代から続く創業60周年の老舗である。職を転々としていた長男の琢己(林田一高)が跡を継ぐことになり、店のリニューアルを計画中だ。ベテラン料理人の金村彬(髙橋克明)も「若旦那」を盛り立てようとしていた矢先、琢己が大怪我で入院した。ちょうどそのとき、常連客で外国人留学生支援をしている椿本(金沢映実)が、モンゴルからの留学生フンビシ(奥田一平)を店に連れてきた。保育士をしている琢己の妻・愛(吉野実紗)は、フンビシに店で働いてもらうことを決めるのだが…。

 タイトルの「ジャンガリアン」とは、ジャンガリアンハムスターのことで、見た目は鼠とさほど変わらない。縄張り意識が強い習性を利用して「たきかつ」の古い店に巣食う鼠の駆除にと、琢己が持ち込んだ。

 「たきかつ」、そして多喜家の抱える事情や過去はなかなか複雑で、琢己の父、つまり幸子の夫・高安(たかお鷹)は、先代である舅と折り合いが悪く、15年前に家を去ったのだが、同じ商店街で割烹料理店を開いており、琢己の妻の愛は再婚で、そこにも事情がある。

 威勢の良い大阪言葉は饒舌そのもので、有無を言わせず観客を劇世界に引っ張り込む。そこにフンビシの慣れない日本語が不思議に馴染み、休憩を挟んで2時間20分を飽きさせない。

 ジャンガリアンが、物語前半で大きなゲージごと二階に運ばれて最後まで姿をみせないこと、店内のリニューアルがほとんど進まないままで物語が終わる(工務店の社員は川合耀祐)こと、いずれもあざとさのない作劇の巧さである。ただいささか行儀よくまとまってしまった印象もあり、横山作品が持つ暗い深淵や、どうにも解決できない人間の心の影の部分を、もう少し繊細な手並みで見たい。「来年はオリンピックもあるし」という台詞から、本作の時は2019年であろう。となると、数か月後には「たきかつ」とその周辺の人々は、コロナ禍に襲われることになる。温かな終幕からは、その不穏な予兆は全く感じられなかったが、それでよかったのかという疑問も残る。

 いささか唐突だが、美智子上皇后陛下の和歌を思い出す。北京オリンピックの100m平泳ぎで世界新記録を出して1位となった北島康介が直後のインタヴューで感極まって叫んだ言葉を詠んだものだ。〈たはやすく勝利のことばいでずして「なんもいへぬ」と言ふを肯ふ〉。「肯う」とは、「いかにももっともだと思って承知する、承諾する、同意する」の意で「諾う」、「宜う」とも書く。自分がこの言葉をはっきりと認識したのは、陛下の和歌によってである。偉業を成し遂げた若者の、いささか乱暴ではあるが、からだじゅうから溢れ出る喜びを柔らかく受け止め、理解したことを表現する、非常に懐の深い言葉であると思う。

 『ジャンガリアン』は登場人物たちが互いを、そして自分自身の葛藤や疑い、嫉妬や悔恨を「肯う」までの紆余曲折を描いた物語である。タイトルの「ジャンガリアン」は、見た目では違いのわからない日本人とモンゴル人の軋轢の象徴であり、自分の居場所を死守せんと、フンビシの受け入れを拒む琢己の複雑な心の様相を反映するものとも考えられる。最後まで舞台に登場しない「ジャンガリアン」は、たぶんわたしの心のなかにも息づいている。わたしはそれを「肯う」ことができるのか。温かな心持で帰路につきながら、ふと見えないジャンガリアンへの軽い怖れも覚えたのであった。
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