*瀬戸口郁作 西川信廣演出 公式サイトはこちら 11月6日まで 紀伊國屋ホール 9日~10日 尼崎ピッコロシアター
舞台美術家・日本画家である朝倉摂(1922年/大正11年~2014年/平成26年)の評伝劇で、摂の母・朝倉耶麻子(富沢亜古)が語り手となって、おてんばを通り越してやんちゃを尽くす子ども時代から、彫刻家の父・朝倉文夫(原康義)と絶え間なく衝突しながら日本画家として活躍し、結婚、出産ののち、演劇の世界に足を踏み入れてアメリカ留学に旅立つまでの摂(荘田由紀)を描く。絵画、演劇、映画とさまざまな分野の芸術家が登場する群像劇であり、芸術賛歌の物語であると同時に、芸術と政治、芸術家と労働者、芸術と時代など重層的なテーマを提示した社会劇の一面も持つ。
朝倉摂が亡くなってから既に10年も経ったことが実感できないのは、2022年に開催された「生誕100年 朝倉摂」展(神奈川県立美術館葉山、練馬区立美術館)の印象が鮮烈なためであろう。摂の死後、自宅の物置から大量の日本画が発見された。演劇の世界に進んでからは、日本画家としての年月を封印し、家族すら絵画の存在を知らなかったという。今回の舞台『摂』は、日本画家時代の朝倉摂の物語を舞台にするという大変な事業である。劇作家の瀬戸口は劇団の企画会議で「この芝居は死ぬ気でやる」と宣言したとのことだが(公演パンフレット掲載)、そのように決意させる迫力と情熱が、摂の絵画にはあるということだ。わたしたちの知らない摂、新しい摂に会える。その期待を以て劇場に足を運んだ。
摂役の荘田由紀は華奢なからだからエネルギーが迸るように元気いっぱい。自分のことを「ボク」と呼び、男言葉を使い、父親には娘として、芸術家として恐れず反論する。周囲がどう思おうと関係なく、前だけを向いて走り続ける摂にぴったりだ。甲高い声で叫ぶ調子が続くのはやや辛いが、仮に再演の機会があるなら、逡巡や葛藤の深い造形も可能ではないだろうか。初対面ではまるで反りが合わない印象だった記録映画監督の冨澤幸男(細貝光司)の事務所を訪ね、次第に心を通わせていく場面が自然で好ましい。
母・耶麻子の富沢と、伯母しう役の新橋耐子は和服での演技が美しく、三味線も披露する。とくに新橋の伯母は、摂が巻き起こす騒動の要所要所をどこ吹く風で引き締めて小気味よい。富沢は終幕で摂の娘・亜古本人としても登場し、母に呼びかけるひと言が胸を打つ。母の物語を演じる。娘としても俳優としても感無量ではないだろうか。
ときおり舞台奥に摂の絵画が大きく映写され、劇世界を彩り、導く。終幕では朝倉摂本人の画像が映されたが、これはいかがなものだろうか。自分は舞台『摂』を、俳優が演じる物語を観ているのであり、荘田由紀の摂がそこに居ることでじゅうぶんではないだろうか。また細かいことを言えば、物語終盤で「上から目線」という台詞があったと記憶するが、非常に違和感があった。
久しぶりに紀伊國屋ホールの客席に身を置いたのだが、まず座席が改善されて、姿勢が楽になったのはありがたい。そして改めて実感したのは、たとえばロビーは広々としているわけではないのに、観劇前の高揚感は一人のときも、知己があるときも変わりなく、幕が下りた後の余韻を抱えて談笑したり、物販を覗いたり等々、とても心地よい空間なのだ。これはたびたび紀伊國屋ホールを訪れていたころには気づかなかった「書店のなかにある劇場」の温もりであろう。忘れるところだった。これからもしっかりと通いたい。
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