*マーティン・マクドナー作 芦沢みどり訳 森新太郎演出 ステージ円 公式サイトはこちら 公演は18日まで。
━「絶望」ということを考えた。
アイルランド系英国人劇作家マクドナーが97年に発表した作品。この夏、長塚圭史演出の『ウィー・トーマス』をみたあとなので、今回もさぞかし暴力と憎悪に溢れた血まみれの物語と想像したが、少し違った。
登場人物はコールマン(石住昭彦)、ヴァレン(吉見一豊)の兄弟に神父(上杉陽一)、ガーリーンという少女(冠野智美)の4人である。兄弟の父の葬儀を終えてうちに戻った兄弟と神父のやりとりから物語が始まるのだが、この兄弟、とにかく仲が悪く、それもポテトチップや酒をめぐる些細なことで壮絶な喧嘩を繰り広げるのである。あいだに立つ神父はおろおろするばかりで仲裁も救済もできない。しかも父の死はコールマンによる殺害かもしれず、この村にはほかにも親殺しの噂を立てられた者がおり、神父は村のありさまと自分の無力を嘆いてメソメソと酒浸りになってしまった。ガーリーンは酒の密売で稼ぐしっかり者だが、あばずれ風の娘である。
仲の悪いきょうだいというのは現実にあるし、普通の仲であっても子どもの頃に喧嘩をした、苛められたことをずっと許せず恨みに思っているということも珍しくはないだろう。いっそ他人同士なら離れて無関係になれるのに、血のつながりのあるきょうだいはそうはいかない。ここまで不仲な二人が兄弟という縁で出会ってしまったこと、これほど相性が悪いのにずっと同居していることの不思議、というか不気味。教会や聖職者の努力や信仰の力もここでは無意味で無力であり、人間関係の最小単位である家族ですら愛し合えないのに、世界平和の達成など「なに寝ぼけたことを」(ヴァレンの台詞)とぶっとばされてしまうのである。(以下の記事にはネタばれがあります。これからご覧になる方はご注意くださいませ)
絶望した神父は自殺を決意し、湖のほとりに佇む。そこにガーリーンがやってきて二人はそこで少し話をする。ガーリーンは前述の通り少々あばずれな17歳だがなかなか可愛らしい少女で、どうも神父に恋をしているらしいのだ。悲劇喜劇11月号掲載の戯曲では神父の年齢は35歳となっており、随分イケてないオジさんを好きになったものだと思うが、二人が話す場面、静かで優しいピアノの曲が流れ(音響:藤田赤目)、望みのない恋をした少女の悲しみと、それでも明るくふるまうけなげさが感じられる大変美しいものであった。まだ何かを信じることができるかもしれない、そんな気持ちにされられるのである(この神父役は非常に難しいと思う。今回の上杉氏の配役と神父が遺書を読み上げる場面の演出については実は少々疑問あり)。
神父の葬儀が終わって、兄弟はうちに戻る。神父が「きみたち兄弟が愛し合うことに魂を賭ける」などと遺書を残したものだから、さすがの彼らもしゅんとしている。互いに子ども時代からの喧嘩の恨みつらみを言い合いながら、謝罪を受け入れ合うというゲームをして、これで兄弟仲直りかと思わせたが、やはりいけなかった。それだけは言わなければいいのにということを言ってしまった二人はまたしても壮絶な喧嘩(ほとんど死闘)を始めてしまう。しかしこの場面で、絶望していない自分の心に気づく。うっかり希望を抱いたりするから、それが叶わないと絶望して悲しい思いもするので、そう簡単に憎しみが消えないほうが、むしろ良心的ではないかとすら思えるのである。魂を賭けた神父の死もガーリーンの悲しみも、兄弟を和解させるには至らなかった。いいところまでいったのだが。しかしそれでもこのふたりは生きていく。
カーテンコールの拍手はとても温かく、なかなか鳴り止まなかった。俳優の熱演とこれが本公演初演出となった森新太郎氏の健闘を讃えたい。兄弟の関係はやはり絶望的かもしれないが、こういうものを描くことができる演劇への希望はしっかりと受け止められたと思う。
「失う」ことを考えた『アジアの女』と「絶望」について考えた『ロンサム・ウェスト』。どちらも重たい内容だったが、それが演劇によって描かれることに希望を感じられた充実の2日間だった。
━「絶望」ということを考えた。
アイルランド系英国人劇作家マクドナーが97年に発表した作品。この夏、長塚圭史演出の『ウィー・トーマス』をみたあとなので、今回もさぞかし暴力と憎悪に溢れた血まみれの物語と想像したが、少し違った。
登場人物はコールマン(石住昭彦)、ヴァレン(吉見一豊)の兄弟に神父(上杉陽一)、ガーリーンという少女(冠野智美)の4人である。兄弟の父の葬儀を終えてうちに戻った兄弟と神父のやりとりから物語が始まるのだが、この兄弟、とにかく仲が悪く、それもポテトチップや酒をめぐる些細なことで壮絶な喧嘩を繰り広げるのである。あいだに立つ神父はおろおろするばかりで仲裁も救済もできない。しかも父の死はコールマンによる殺害かもしれず、この村にはほかにも親殺しの噂を立てられた者がおり、神父は村のありさまと自分の無力を嘆いてメソメソと酒浸りになってしまった。ガーリーンは酒の密売で稼ぐしっかり者だが、あばずれ風の娘である。
仲の悪いきょうだいというのは現実にあるし、普通の仲であっても子どもの頃に喧嘩をした、苛められたことをずっと許せず恨みに思っているということも珍しくはないだろう。いっそ他人同士なら離れて無関係になれるのに、血のつながりのあるきょうだいはそうはいかない。ここまで不仲な二人が兄弟という縁で出会ってしまったこと、これほど相性が悪いのにずっと同居していることの不思議、というか不気味。教会や聖職者の努力や信仰の力もここでは無意味で無力であり、人間関係の最小単位である家族ですら愛し合えないのに、世界平和の達成など「なに寝ぼけたことを」(ヴァレンの台詞)とぶっとばされてしまうのである。(以下の記事にはネタばれがあります。これからご覧になる方はご注意くださいませ)
絶望した神父は自殺を決意し、湖のほとりに佇む。そこにガーリーンがやってきて二人はそこで少し話をする。ガーリーンは前述の通り少々あばずれな17歳だがなかなか可愛らしい少女で、どうも神父に恋をしているらしいのだ。悲劇喜劇11月号掲載の戯曲では神父の年齢は35歳となっており、随分イケてないオジさんを好きになったものだと思うが、二人が話す場面、静かで優しいピアノの曲が流れ(音響:藤田赤目)、望みのない恋をした少女の悲しみと、それでも明るくふるまうけなげさが感じられる大変美しいものであった。まだ何かを信じることができるかもしれない、そんな気持ちにされられるのである(この神父役は非常に難しいと思う。今回の上杉氏の配役と神父が遺書を読み上げる場面の演出については実は少々疑問あり)。
神父の葬儀が終わって、兄弟はうちに戻る。神父が「きみたち兄弟が愛し合うことに魂を賭ける」などと遺書を残したものだから、さすがの彼らもしゅんとしている。互いに子ども時代からの喧嘩の恨みつらみを言い合いながら、謝罪を受け入れ合うというゲームをして、これで兄弟仲直りかと思わせたが、やはりいけなかった。それだけは言わなければいいのにということを言ってしまった二人はまたしても壮絶な喧嘩(ほとんど死闘)を始めてしまう。しかしこの場面で、絶望していない自分の心に気づく。うっかり希望を抱いたりするから、それが叶わないと絶望して悲しい思いもするので、そう簡単に憎しみが消えないほうが、むしろ良心的ではないかとすら思えるのである。魂を賭けた神父の死もガーリーンの悲しみも、兄弟を和解させるには至らなかった。いいところまでいったのだが。しかしそれでもこのふたりは生きていく。
カーテンコールの拍手はとても温かく、なかなか鳴り止まなかった。俳優の熱演とこれが本公演初演出となった森新太郎氏の健闘を讃えたい。兄弟の関係はやはり絶望的かもしれないが、こういうものを描くことができる演劇への希望はしっかりと受け止められたと思う。
「失う」ことを考えた『アジアの女』と「絶望」について考えた『ロンサム・ウェスト』。どちらも重たい内容だったが、それが演劇によって描かれることに希望を感じられた充実の2日間だった。
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