*アウグスト・ストリンドベリ作 コナー・マクファーソン翻案 小川絵棃子翻訳・演出 公式サイトはこちら『令嬢ジュリー』と交互上演 シアターコクーン 4月1日まで
ノルウェーのイプセンと並び、近代演劇の先駆者と称されるストリンドベリが1901年に発表した戯曲である。戯曲のみならず、小説や詩、評論、エッセイなど多方面で健筆をふるう一方、彼の私生活は、結婚と離婚を繰り返す難儀なものであったそう。本作は二度めの結婚が破たんした後に書かれているが、題材としたのは彼の妹夫婦らしいとのこと(公演パンフレット記載)。結婚のためにヴァイオリニストになることを諦めた妹と、その毒舌家の夫という点も戯曲の設定によく似ている。
あくまで本人談ではあるが、新進女優としてまさにこれからというところで、十以上も年上の大尉エドガーに見初められて結婚したアリス(神野三鈴)と、嫌味で陰険な性格が災いして出世できなかったエドガー(池田成志)夫婦の銀婚式を数か月後に控えた火宅が舞台である。エドガーは軍人としての人生の不満をアリスにぶつけ、アリスは仕事を辞めさせられた恨みを執拗に言い募る。夫妻の罵り合いはすさまじく、よくこれで何人かは子どもが生まれ、どちらも生きてこられたものだと感嘆するほどである。
そこへアリスの従弟クルト(音尾琢真)が訪れる。彼もまた離婚によって親権を失い、ずっと憧れていたアリスとの15年ぶりの再会にも複雑な思いを抱いている。夫婦が外面を取り繕っていたのはほんの数分のこと。蛇蝎のごとき憎悪の嵐に、クルトはあっという間に巻き込まれてしまう。
先ごろ亡くなった作家の三浦朱門の『四世堂々』(朝日文庫)に、次のような一節がある。「一度でいいから、本当に仲のよい夫婦というもを見てみたいものだ。私の知る限りでは、どの夫婦でも、老若を問わず、かなり陰惨な生活に耐えているのである」。我慢はお互いさまなどというレベルではなく、「陰惨な生活に耐える」という問答無用の表現にはしばしたじろぐ。たくさんの夫婦、家族に出会ってきたであろう三浦をして、「本当に仲のよい夫婦というものはめったにいない」ということである。ならば「本当に仲の悪い夫婦」とは、どのようなものなのだろうか。
思い出すのは、映画『ハッシュ!』(Wikipedia)(橋口亮輔監督 2001年)だ。行きずりの相手と愛のない交わりを繰り返す女性(片岡礼子)が、ゲイのカップル(高橋和也、田辺誠一)と出会い、精子の提供を持ちかけたことに物語が始まる。そこに登場する田辺の兄夫婦の様相である。夫(光石研)は見合い結婚した年上の妻(秋野暢子)のすることなすこと全てが気に入らず、妻が義弟(田辺)に「漬物食べる?」と声をかけたことにすら、「出したらええやないか」とイラついた声を出す。義弟に聞いているのだから夫がケチをつける必要は全くないのに、いちいち聞くのが気に食わない、さっさと漬物を出せと言いたいのだろう。妻は反論せず傷ついた様子もなく、いっさいを受け流す。無視である。だからこの夫婦は喧嘩はしない。する気力もなく、喧嘩の意味も見出せないからだ。仲が悪い夫婦というのはむしろ静かであり、会話が成立しない。論理も理屈もなく、夫はただただ妻が嫌いで、妻は夫に心を向けないことで、どうにか心身の平安を保つ。こちらの心が寒々とするような夫婦であり、現実に見たことはないが、「こういう夫婦はきっといる」と確信させる描写であった。
だからといってエドガーとアリス夫婦を指して、「喧嘩するほど仲がいい」などとは決して言わない。相当に不仲であることは確かだが、ここまで丁々発止の罵り合いをし、相手を破滅させようと目論んだり、ほかに助けを求めたりしているところをみると、まだ諦めきっていないのではないかとすら思われるのである。円満かそうでないか、お互いに対する心のありかは簡単に言えるものではないだろう。すべてが愛ではないように、すべてが憎しみであることもないのではないか。
シアターコクーンの客席を対面式にし、中央に舞台をしつらえた。コクーンの観劇には1階席であっても後方ならオペラグラスが必要であるが、今回はよく見える作り(本音を言えば、もう少し後列がよかったが)であった。
本来の『死の舞踏』には第二部まであるが、第一部だけを取り上げたマクファーソンの翻案台本が「非常によく出来ています」(小川)とのこと。2008年の演劇集団円の公演がどのようなものであったか知りたいが、それにしてもあそこまでやりあって一応収まりを見せた夫婦の物語に、さらに「吸血鬼」と題されたつぎの幕があるとは、どれほど陰惨なものであるのか、怖いもの見たさでホンだけでも読みたいものである。
観劇した夜、自分はFBに次のような感想を記した。「本作は観劇の必然性が(こなれていない表現だけど)非常に高い。これから結婚するかもしれない人は将来の予習として、継続するしないにかかわらず、すでに結婚を通過した人は過去の復習として。自分がいかに幸せかを確認し、感謝するために、あるいは自分よりもっと不幸な人がいることに慰めを見出すために、もしくは自分のほうがもっと悲惨だと覚悟するために。さまざまな状況にある観客の存在に耐えうる作品だ」
日にちが経って、どうもそうではないような気に。実際に『死の舞踏』のような夫婦があるかどうかは別として、作者はこの作品によって、何を伝えようとしたのだろうかという根本的なことがわからなくなった。夫婦関係に限らず、幸福や不幸は他人との比較ではないと思う。終始いがみ合い、罵り合うエドガーとアリスと、『ハッシュ!』の兄夫婦のどちらが幸福か不幸かなどの比較は無意味であるし、「ウチのほうがまだましだわ」とふと安堵したとしても、しょせん作り物の芝居の世界に比べれば、終演後にあの連れ合いが待つ火宅に帰らねばならない現実のほうがよほど悲惨であろう。なので自分にとっての『死の舞踏』は、着地点のない、浮遊状態の物語なのである。
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