因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

えうれか第三回公演『楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~』

2017-03-18 | 舞台

*清水邦夫作 花村雅子演出 シブサワホタル(CASSETTE)演出アドバイザー 公式サイトはこちら 渋谷/space EDGE 20日で終了 (1,2

 当日リーフレット掲載のえうれか主宰花村雅子の挨拶文に、本作は「日本で最多上演数を誇る戯曲」と記されている。データの出典は明らかにされていないが、ここ数年を振り返ってみても、さまざまな座組みによる公演の情報を見聞きする。昨年は楽園王の長堀博士の演出による力強い『楽屋』を見たばかりだ。

 客席が演技スペースを三方に囲む作りで、正面奥に化粧前と衣装ラック、その手前左右に鏡のないテーブルが二つ。あとは飲み物やお菓子などが置かれたテーブルがひとつ。上演前から山田直敬によるヴィオラの生演奏が聞ける。照明の具合もあろうが、家具調度類が長年使い込まれた良質のものに見え、ヨーロッパのどこかの都市の、相当に古びてはいるが由緒ある劇場の楽屋の趣すら漂わせている。

 上演数が多いということは、観客側から言うと、「観劇回数が多い」ということだ。自分もおそらく45回は見ているだろう。既に見たことのある作品、知っている話を見る楽しみは、座組みによって違う顔を見せる戯曲の味わいを探るところにある。といって、決して「斬新な演出」を追い求めるわけではなく、むしろどれだけ戯曲に寄り添い、あるときは正面から戦いを挑み、あるときは懐に飛び込み、いかに取り組んだかという姿勢、作り手の息づかいを求めて『楽屋』の客席に身を置くのである。今回のえうれかの『楽屋』は、その思いに応えてくれるものであった。

 小さなスペースで、客席最前列は女優の息がかかりそうに近く、女優の顔を見つめるのが気恥ずかしくなるときもあった。演じる側もさぞやりにくいのではないかと想像したが、女優方は実に堂々としている。芝居なのだから、プロなのだからあたりまえではあろうが、これほど近いところに、おもての現実世界を背負った、いわば闖入者のごとき観客がいて、それらが居ないかのように、しかし居ることをぜったいに忘れず振る舞うこと。しかも女優の役を演じるのである。演技とは何かということを考えはじめると、これはもう切りがなくなるのだが、観客もこの「演じること」に憑りつかれた女たちの物語を受け止めようと前のめりになるのである。

 以前、ある劇団の制作者がふと漏らした「どうして自分は芝居に関わってるんだろうかって、考えません?」という問いかけを思い出す。作り手と受け手のちがいは大きいが、ほかに数多の楽しみがあるのに、どうにも演劇が好きで、それなしの日々が考えられない人生を考えるとき、『楽屋』の女優を見て、「女優とは何と業の深い生きものよ」と簡単に客観視できない自分に気づくのである。

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