*公式サイトはこちら 歌舞伎座 27日まで
今月残念だったのは、国立劇場の歌舞伎鑑賞教室「義経千本桜」を見のがしたことだ。立役のなかでも最重量級と言われる渡海屋銀平(実は平知盛)を尾上菊之助がつとめた。年齢的にも早く、何より菊之助自身の持ち味とは異なる役を、監修をつとめる岳父中村吉右衛門の教えを正しく聞き、誠実に演じるすがたが非常に好ましいとのこと。
朝日新聞掲載の児玉竜一氏の劇評には、その様子が生き生きと記されていて、「見たかったなあ!」と思わせる。もちろん手ばなしの絶賛ではなく、まだ足りない点や惜しまれるところも忌憚なく述べられており、納得のいく一文となっている。また尾上右近演じた入江丹蔵について、「こんなに良い役かと思わせる」の一節には、おそらくこの演目をさまざまな俳優で幾度となく観てきた作者が、右近の演技に目を見張り、役に対しても新鮮な印象をもったことが伝わってくる。
なぜ冒頭から他公演の劇評のことを書いたかと言うと、市川海老蔵が出演する舞台に対して、ほとんどセットのように毎回同じ朝日新聞に掲載される批評がどうしても気になるためだ。今回もすべての役に対して、あいかわらず手きびしい。自分は菊之助、海老蔵いずれも贔屓ではなく、その逆でもない。なので劇評に一喜一憂することはないけれども、「どんな劇評を読みたいか」と考えると、だんぜん前述の菊之助知盛初役を評した一文だ。
たとえば職場はじめ、さまざまなコミュニティーにおいて、何かと言うと口うるさく批判的な方がいる。手きびしいのは構わない。指摘してもらうおかげで問題点や対策への道筋が見えてくる場合があるからだ。問題はその表現であり、その人ぜんたいから醸し出される心映えである。「負のオーラ」を放つ発言は場の雰囲気を悪くし、議論を停滞させる。同じように負のオーラを持つ文章は、新たな視点の発見や、意見に触発されてこちらの考えが深まるより先に不愉快な気分に陥ってしまうのである。
だんだん何を書こうとしているのかわからなくなった。それは某劇評の受けとめかたに迷ったことと、昼の部「南総里見八犬伝」、「与話情浮名横櫛」ともに、見せ場のみを抽出しての上演のため、じゅうぶんに楽しむことができなかったからでもある。
これらのさまざまな気持ちを吹き飛ばしてくれたのが、昼の部最後の「蜘蛛絲梓弦」(くものいとあずさのゆみはり)である。市川猿之助が六役を早替わりの見せ場もいれながら演じるすがたは実に小気味よく、「歌舞伎はこうでなくっちゃ」とばかり、すかっとした気分になる。また今回玉三郎は自分が演じるだけでなく、海老蔵や獅童、中車たち後進に知識や知恵を伝える重責も担っており、名選手かつ名監督であることを如実に知らしめた。
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