公式サイトはこちら 上野ストアハウス 31日まで
ひとつの脚本(佐藤秀一作)を3人の演出家で連続上演する。
オクムラ宅主宰の奥村拓(1,2,3)演出のATypeが先陣を切って17日まで、続いて加藤真紀子(ノクターン)のBTypeが20日から24日まで、最後は福地慎太郎(FLIPLIP)のCTypeが27日から31日まで上演される。それぞれに空ちーむ、鈴ちーむのキャストがあるため、合計6タイプの舞台をみることができるという盛りだくさんぶり。
観客の投票によって俳優男女1名ずつのMVP、最優秀ちーむ賞が選ばれるなど、俳優どうし、またチームどうしが共演しつつ競争する刺激やお楽しみも用意された意欲的な企画だ。
久しぶりの同窓会の誘いに応じて、青年たちが古びた教室に集う。もうじきこの町はダムの底に沈むため、その前に校庭に埋めたタイムカプセルを掘り起こそうというのだ。ふるさとに残った者、去った者など、進んだ道はさまざまだ。教室は彼らが中学生だったときの時間にもどり、過去と現在が交錯する構造のなかで、彼らの悲喜こもごも、なかなかみつからないタイムカプセルの謎がしだいに明らかにされてゆく。
町にダムを作る計画は、彼らが中学生のときから持ちあがっており、彼らは署名運動などをして懸命に大人たちに反対の意志を訴えたが、ついに教室にバリケードを作って立て籠るという実力行使に出た。
俳優は12年後のいまと中学生だった当時とを同じ配役で演じる。学生服やセーラー服すがたがほとんど無理なく、社会人とのあいだにぎくしゃくした感じが生じなかったのは若さの勝利であろう。教室の空間が中央にあって、それ以外の場所での動きも遮るものを置かない。たとえば上手にあるらしき入口から教室にやってくる様子、社会人→中学の制服に着替える様子もそのままみせる演出である。
登場する青年たちは13名(一部ダブルキャストあり)で、2時間の尺でぜんいんの性格や背景、人物同士の相関関係をてぎわよく描くのはむずかしいことであろう。
今回出演される俳優さんたちがいずれも初見の方々ばかりだったという当方の不勉強も一因だが、観劇中「どの役名の人がどの俳優さんなのか」を把握するのに意外なほど力を使ったのである。どういうことかというと、やりとりのなかである人物のことが話題になったとする。そこでその人が誰で、どの俳優さんが演じており、劇のなかでどういうポジションの人物なのかがなかなかわからなかったのだ。
はじめてみる芝居ならば、人物のことがすぐにわからないことは当然のことだ。みているうちに自然にわかり、覚えられるし、その過程が観劇の楽しさでもある。その感覚が中盤以降まで得られなかった。あまり行儀のよいことではないが、暗闇の中で当日リーフレットの余白にその人物の名前を聞いて、特徴などをメモ書きするということをせざるを得なくなり、これも集中を削ぐ要因となった。終演後、まわりのお客さんのなかにもリーフレットの余白に人物名などの書き込みをなさっている方が数人あり、多少安心はしたものの、やはり観劇の姿勢としては残念である。
なぜ人物のことがなかなか把握できなかったのか、「把握できない」ことが気になりつづけたのか。これが今回の舞台を考える上で、予想外に重要な問題なのではないか。
久しぶりの同窓会や、再会した友だちに対して抱く感情は、ただ懐かしいという一枚岩ではなく非常に複雑であること、失った仲間のことがいまだに彼らの心に影を落としていること、元気にふるまっていても追いつめられていたり、仕事でもプライベートでも一筋縄ではいかない状況に悩んでいること、タイムカプセルをめぐるあれこれなどは、率直にいっていずれも既視感のあるものだ。
しかしそれが問題ではない。舞台に必要なのは、意外な展開や度肝を抜くような描写ではないのではないか。
たとえば新国立劇場公演『長い墓標の列』である。戯曲の骨格が非常に堅固であり、それがいま目の前にいる生身の存在である俳優によって発語され、劇世界が立ちあがってゆくこと。 すべてを語りつくして観客に理解させるのではなく、人物自身でもどうしようもないその人の心の様相を、それでも必死で相手に伝えようとするすがたがみる者を捉えるのである。
またあまりにタイプが異なるが、劇団ロ字ック公演『タイトル、拒絶』や、月刊「根本宗子」公演『今、出来る、精一杯』の舞台をあざやかに思い出す。いずれも10人を越える人物、それも極端な自意識過剰や他者への偏狭なまでの期待と依存の塊のような人々がくりひろげるすさまじい愛憎劇の様相は、胸が悪くなるほど醜悪でありながら目が離せない魅力があって、みおわったあと清々しくすらあった。
内容や描写の比較ではなく、演劇をみたという確かな手ごたえがあるかないか、なのだ。
本公演は上野ストアハウスという魅力的な劇場をほぼ半月借り切り、3人の演出家に2つの座組みで上演するという意欲的な企画である。今回の上演をみた印象であるが、劇作、演出にもう少し時間をかける必要があるのではないか。
奥村拓は古典戯曲を丁寧に読み込む誠実な姿勢をもち、独自の視点であざやかに切り込むことのできるすぐれた演出家だ。奥村のこれまでの舞台成果と手腕をもってすれば、まだまだ変容する余地のある作品と思われるのである。
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