*久保田万太郎作 大場正昭演出 公式サイトはこちら 六行会ホール 16日まで(1,2,3,4,5)
『くさまくら』
昭和22年8月中旬のある夜、浅草墨田公園ちかく、土木建築請合業を営む徳之助(下総源太朗)のうち。最初は二階の座敷が舞台で、徳之助の女房おしん(大原真理子)が知り合いの半造(菅野菜保之)の酒が過ぎるのを案じている。階下には店員の勝次郎(前田聖太)と、元人気落語家で、今は寺の使用人をしている惣介(冷泉公裕)がいる。
うちには客人がいる。元は芸者で、今は九州の素封家の未亡人であるおさと(一柳みる)である。徳之助は昔おさとの両親に受けた厚情への感謝と恩返しで彼女を逗留をさせているが、おしんはそれがおもしろくない。おしんは徳之助がおさとに惚れているからだと言い、亭主は女房に手を上げる。これだけ書くと、夏の夜の夫婦の諍いに過ぎない。しかし前述のように敗戦から2年、戦時中の記憶はまだ生々しい傷口で、しかも8月の中旬、亡くなった人の魂を迎え、そして送る盆の季節である。ことさら戦時中の苦労が話されるわけではない。しかしふたつみっつ流れ着いた燈籠のいくつかを見つめる人々が、ことばにできずに仕舞いこんだ気持ちとはどんなものだろうと、見るものに想像させずにはいられない。
『三の酉』
今回は赤坂の芸者おさわを大鳥れい、おさわの朋輩だった年ちゃんが古閑三惠に、年ちゃんのご亭主の画家役も佐堂克実に変わった。「ぼく」役の中野誠也は前回と同じ。扇のかなめのごとく物語をゆるやかに導き、静かに幕を引く。おととし観劇の記事を読みかえしてみると、今回もほぼ同じ感想をもった。小説の舞台化という点で、舞台の構成にいささか難があること、とくにマイクを使った演出はやはり残念だ。
しかしおさわが仲睦まじい年ちゃん夫婦の暮らしを垣間見て、「これだ、これなんだ。これでなくっちゃァいけないんだ・・・」と思い知らされたこと、そのやりきれなさからとくにどうということはない男を酉の市に誘い、いよいよ淋しくなったことなど、その場の様子が鮮やかに目に浮かび、そのときどきのおさわの心持ちがそくそくと伝わってきた。
ともすると独り身の女の淋しい物語になりかねないところを、中野誠也演じる「ぼく」の存在がフィルターの役割をして、ほどよい距離感を生み、べたつくことなく、しかししみじみとした深い味わいを残す。今度の酉の市にはいっしょに行こうと約束したおさわが、それを待つことなくこの世を去ったことを語る「ぼく」の表情に宿る悲しみ。天涯孤独のおさわが死んだことを悲しむ人がいてよかったと思わせる。
久保田万太郎は、『くさまくら』をなぜこのような構成にしたのかと考えた。たとえば1時間足らずの作品中、舞台転換が2度もある。そう言えば『釣堀にて』もそうである。さすがに手慣れているのだろう、さほど大きな物音も立てず、前幕の感興を削ぐこともなく進行していたが、映像ならこのように大変な作業をしなくて済む。では映画やドラマの『くさまくら』はと想像すると、やはり舞台がいい。
逆に『三の酉』を映像にしたらどうなるだろう。原作の通り、どこかの料亭の座敷でいっぱいやりながら「ぼく」がおさわの話を聞く。演出家は、おさわの「三の酉がすぎるともう、冬のけしきだからうれしいわ」という台詞に誘われて、「年の瀬の東京の外気に二人をふれさせてみたくなった」とのことだが、おもてでこれだけ長い話をするのは寒すぎやしないか。また小説の地の文が台詞としてこなれているかという点も気になる。
劇の中盤で、年ちゃん夫婦が、おさわがいっしょにいるものとして(誰も座らぬ座布団に明かりがあたっている)夕飯を楽しんでいる景がとてもあたたかで、演劇ならではの味わいを生むことに成功している。
『くさまくら』のように、時系列に沿ってすすむ話は、劇中数回の舞台転換もいたしかたないが、回想形式の『三の酉』ならば、もっと演劇ならではの趣向が凝らせるのではないか。
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