*渡辺義治・横井量子 作・構成・演出・美術・出演 タイニイアリス 14日昼と夜
東北関東大震災による計画停電の影響で首都圏の交通が乱れているなか、予定とおりの上演となった。チケットに「ノンフィクション・ステージ」と書かれている通り、南京大虐殺と渡辺義治・横井量子夫妻がそれぞれの両親が戦争中に何をし、戦争が終わってもなお自身だけでなく、その息子や娘にまで及ぶ深い傷と罪を激しく問い詰め、問いかける舞台である。休憩をはさんで2時間あまり、作り手の厳しい姿を一瞬も気を緩めることもできず、ただみつめる。
戦争を題材にした演劇はたくさんある。戦争責任を過去から現代、未来に語り継ごうとする井上ひさしの東京裁判三部作はその代表的なものであろう。また戦争を知らない世代が、両親、あるいは祖父母の代まで遡って、その心情を共有しようとする作品として、自分は昨年秋の『グロリア』が印象に残る。
今日の舞台は上記の作品とは違う姿勢でみるべきなのだろうか。新聞記者の語りにはじまり、アメリカ人女性宣教師のこと、渡辺義治自身の「告白」、横井量子の「妻の告白」、さらに南京で行われたすさまじい虐殺の様相が続く。
本作は演者にとって、どうしても作らなくてはならない魂の叫び、究極の必然性を持つものなのだろう。それを多くの観客をもその必然性に巻き込んだとき、大きな演劇的効果を生むと想像する。胸が痛むような作り手の熱意、努力にはほんとうに頭が下がる思いであるが、まず題材が重過ぎ、強過ぎ、深過ぎる。そして自分が観劇して最も強く感じたのは、題材と作り手の距離が近過ぎるのではないかということだ。台詞の大半が「告白」形式をとること、劇中のほとんどにクラシック音楽が流れつづけることなどがその要因である。また本作が客席に求めているのは共感とエールであり、自分がつくっているごく個人的な批評の媒体(通信やこのブログ)ですら、需要があるのかどうか、よくわからないのである。
繰り返しになるが、作り手の方々が自分の心を引き裂くように舞台を作るさまはすさまじい迫力がある。「精魂こめて」とは、まさにこういうことだと思う。舞台をみた多くの人がその姿にうたれ、共感を寄せるだろう。それが想像できるだけに困惑が生じるのである。
信用できない人が、こんな檄をやる資格があるのか。